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 『増鏡』巻17「月草の花」 還京以後、結末





月草(露草)


原文(『増鏡』(下)全訳注.p378)


 礼成門院もまた中宮と聞えさす。六日の夜、やがて内裏へ入らせ給ふ。いにし年御髪(ぐし)おろしにき。御悩みなほおこたらねば、いつしか五壇の御修法始めらる。八日より議定(ぎぢやう)行はせ給ふ。昔の人々残りなく参り集(つど)ふ。

 十三日大塔(たふ)の法親王、都に入り給ふ。この月ごろに御髪おほして、えもいはず清らなる男(をとこ)になり給へり。唐の赤地の錦の御鎧直垂(よろひひたたれ)といふもの奉りて、御馬(むま)にて渡り給へば、御供にゆゆしげなる武士(ものもふ)どもうち囲みて、御門(みかど)の御供なりしにも、ほとばと劣るまじかめり。速やかに将軍の宣旨(せんじ)をかうぶり給ひぬ。

 流されし人々、程なく競ひ上る様、枯れにし木草の春にあへる心地す。その中に、季房の宰相入道のみぞ、預かりなりける者の、情けなき心ばへやありけん、東(あづま)のひしめきのまぎれに失ひてければ、兄の中納言藤房は帰り上れるにつけても、父の大納言、母の尼上など嘆き尽せず。胸あかぬ心地しけり。

 四条中納言隆資といふも頭(かしら)おろしたりし、また髪おほしぬ。もとより塵を出(い)づるにはあらず、敵(かたき)のために身を隠さんとてかりそめに剃(そ)りしばかりなれば、いまはた更に眉(まゆ)をひらく時になりて、男になれらん、何(なに)の憚りかあらん、とぞ同じ心なるどちいひあはせける。天台座主にていませし法親王だにかくおはしませば、まいてとぞ。誰(たれ)にかありけん、そのころ聞きし。

すみぞめの色をもかへつ月草のうつればかはる花の衣に



井上宗雄氏の現代語訳

私の立場からの補足

 礼成門院もまた中宮と申しあげる(ことになった)。六日の夜、すぐ内裏へお入りになる。昨年御出家なさった。御病気はまだおなおりにならないので、さっそく五壇の御修法を始められる。八日から(政務の)議定を行なわれる。昔、天皇に仕えていた人々は残りなく参集する。

礼成門院(1303〜1333.31歳)は西園寺実兼の娘。『増鏡』巻13「秋のみ山」に、春宮時代の後醍醐天皇が「忍びて盗み給」った旨が書かれている。また、『徒然草』第118段に実兼と共に登場する。1319年中宮となるが、後醍醐は中宮の安産を名目に、数年にわたる異常に長期の祈祷を行い、当然のことながら幕府に目を付けられた。1332年5月、光厳天皇の勅により院号宣下があって「礼成門院」と号したが、光厳天皇の在位自体を観念的に全否定する後醍醐天皇により、翌1333年中宮に復位されられ、同年12月の病没後、後京極院の号を贈られた。

護良親王(尊雲法親王.1308〜1335.28歳)は楠木正成と並ぶ討幕の功労者だったが、足利尊氏と厳しく対立し、1334年10月、結城親光・名和長年らにより捕らえられ、12月に鎌倉に流された。そして翌1335年7月、中先代の乱の混乱の中で、足利直義の命を受けた淵辺義博に殺された。四条隆資の子隆貞は護良親王の側近中の側近であり、おそらく1334年12月に、他の親王伺候の人々とともに誅されたものと思われる(平田俊春氏「四條隆資父子と南朝」)。

万里小路季房(?〜1333)
下総から戻った万里小路藤房(1295〜?)は、1334年、後醍醐天皇に失望して突然出家、逐電した。
四条隆資(1292〜1352.61歳)が最後に登場することについて、中村直勝氏は「四条隆資の剃髪も、別に歴史に伝えねばならぬ程の重大なる事件ではない。まして彼が還俗しようが、そしてそれがどんな動機からであろうが、わざわざ数行を使って伝えねばならない程の「歴史性」があるわけでもない。それにも拘らず、一公卿の剃髪蓄髪をかくも巨細に亘って記し、その由来する所についても相当の言葉を使って尤もらしい理由を陳べているのは留意せねばならぬ事ではないか。それ程の位置の人でもない隆資の事を、かくも記す、という所に、何か因縁があるのではないか」(「増鏡の史実性について」)と言われている。この疑問はもっともであるが、通説はきちんとした説明をしていない。この点についての私の考え方はこちら
 十三日大塔の宮尊雲法親王が御入京になる。この数ヵ月来、御髪をのばしてなんともいえず美しい男におなりになった。唐(から)の赤地の錦の鎧直垂(よろいひたたれ)いうものをお召しになって、御乗馬でいらっしゃると、御供には堂々とした武士たちが囲んで、(その豪勢さは)天皇の行幸の御供であった行列(の武士たち)にも、ほとんど劣らないようであった。すぐ将軍の宣旨をお受けになった。

 流された人々も、程もなく競争するように上京して来る様子は、枯れた木や草が春にあったような気持がする。その中に、参議季房入道だけが、預って警固していた者が、無情の心根(こころね)であったのであろうか、東国の戦乱のどさくさまぎれに殺してしまったので、兄の中納言藤房が帰京したのにつけても、父の大納言宣房、母の尼上の嘆きが尽きない。(悲しみで)胸の晴れない気持がしたことであった。

 四条中納言隆資という人も、剃髪していたが、また髪をのばして還俗した。もともと俗塵を逃れて出家したのではなく、敵のために身を隠そうとして、かりそめに髪を剃っただけなので、今また憂えが去って、喜びに会うときになって(還俗して)俗男となるというのに何の遠慮があろうか、と同じ心持の者同士が言い合うのであった。天台座主でいらっしゃった法親王さえ、ふたたび俗世にもどられたのだからまして、というのである。だれであったか、そのころ(次のような歌を詠んだと)聞きました。

すみぞめの色をもかへつ月草のうつればかはる花の衣に

(墨染めの法衣をも花やかな色の衣にかえました。月草が移ると衣の色が変わるように、月日が推移すると人の心も変化して)
 








※この結末部分に出てくる人々の数年後の運命を考えると暗澹たる気持ちにならざるを得ないが、奇妙なことに、『増鏡』を素直に読む限り、『増鏡』には将来に対する明るい希望が満ちているように思われる。やっと野蛮な東国武士どもが支配する時代が終わって、後醍醐天皇を中心とした素晴らしい時代が、朝廷が真の権力の主体として復活・再生する新しい時代が来るのだ、という喜びに満ちているような感じがするのである。
 数歩先に断崖があるのに、それに気づかないで笑って前に進もうとしているような、この異常な明るさについての私の考え方はこちら




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