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| 原文 さても源大納言通方(みちかた)のあづかり奉られし阿波(あは)院の宮は、おとなび給ふままに、御心ばへもいと警策(きやうざく)に、御かたちもいとうるはしく、けだかくやんごとなき御有様なれば、なべて世の人もいとあたらしきことに思ひ聞えけり。 大納言さへ暦仁(りやくにん)の頃うせにしかば、いよいよま心につかうまつる人もなく、心細げにて何を待つとしもなく、かかづらひておはしますも、人わろくあぢきなう思(おぼ)さるべし。御母は土御門(つちみかど)の内大臣通親の御子に宰相(さいしやう)中将通宗とて若くてうせにし人の御女(むすめ)なり。それさへ隠れ給ひにしかば、宰相のはらからの姫君ぞ御めのとのやうにて、瞿曇弥(けうどんみ)の、釈迦仏やしなひ奉りけん心地しておはしける。 二つにて父御門(みかど)には別れ奉り給ひしかば、御面影(おもかげ)だに覚え給はねど、猶(なほ)この世のうちにおはすと思(おぼ)されしまでは、おのづからあひみ奉るやうもや、など、人しれず幼な心地(ごこち)にかかりて思(おぼ)し渡りけるに、十二の御年かとよ、隠れさせ給ひぬと伝へ聞き給ひし後は、いよいよ世のうさを思し屈(くん)じつつ、いとまめだちてのみおはしますを、承明門院は心苦しうかなしと見奉り給ふ。 |
| 井上宗雄氏による現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| さて、源大納言通方がおあずかり申されていた阿波院(土御門院)の皇子は、成長なさるにつれて、御性質もたいへんすぐれており、御容姿もまことに端麗で、上品高貴な御様子でいらっしゃったので、一般世間の人々も、(こういうすぐれた皇子の御境遇を)はなはだ惜しいことと思い申し上げた。 |
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| そのうえ、大納言通方までも暦仁(りゃくにん)のころ(元年一二三八)なくなったので、いよいよ真心をもってお仕えする人もなく、心細そうに何を期待するということもなく、世間との交際を断ち切れず(あえて出家もできず)いらっしゃるのも、外聞わるく、情けなくお思いになっているであろう。 御母は土御門内大臣通親の子、宰相中将通宗(みちむね)といって若くして他界した方の御娘である。その御母までなくなられたので、宰相通宗の姉妹の姫君が御乳母(めのと)のようにして、ちょうど叔母の瞿曇弥(きょうどんみ)がお釈迦さまを養い申し上げたとかいうような格好でいらっしゃった。 |
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| 二歳で父土御門天皇に生別申しなさったので、お顔さえ覚えていらっしゃらないが、やはりこの世の中に生きておいでになると思われる間は、もしかしたらお会い申すこともあろうか、など、ひそかに幼い御心にかけて思い続けておられたが、十二歳の折であったか、父上皇がなくなられたと伝え聞かれた後は、いよいよ世のつらさを思ってふさぎこんで、まったくまじめに己(おの)れを持しておられるのを、祖母の承明門院は心が痛んで悲しいと御覧になった。 |
| ┌--在子(承明門院)−土御門天皇-┐ 通親-│ │--後嵯峨天皇 └--通宗----------通子--------┘ |
| 後嵯峨院と村上源氏 後嵯峨院(1220〜1272.53歳)は、その父方・母方とも源通親と密接な関係がある。 上図のとおり後嵯峨院の父方の祖母、土御門天皇妃の承明門院は源通親養女であり、後嵯峨院の母方の祖父源通宗は通親の子であって、実子と養子の別はあるが、通親で分かれた村上源氏の流れが後嵯峨院で再び合流しているのである。後嵯峨院から見れば曾祖父は父方・母方とも源通親である。 また、四条天皇の突然の崩御の後、親王にすらなれずに逼塞していた自分を鎌倉幕府と通じて天皇に即位させてくれた土御門定通は源通親の息子であって、後嵯峨院にとって村上源氏との縁は決定的に重要なものだったのである。 |