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 『増鏡』 巻4「三神山」 後嵯峨天皇践祚、四条天皇葬送






原文


 又の日やがて御元服せさせ給ふ。ひきいれに左大臣 良実(よしざね) 参り給ふ。理髪(りはつ)、頭弁(とうのべん)定嗣(さだつぎ)つかうまつりけり。御諱(いみな)邦仁。御年二十三。その夜やがて冷泉万里小路殿(れいせいまでのこうぢどの)へうつらせ給ひて、閑院殿より剣璽(けんじ)など渡さる。践祚(せんそ)の儀式いとめでたし。

 そののちこそ閑院殿には追号(ついがう)のさだめ、御わざの事など沙汰(さた)ありけれ。二十五日に東山の泉涌寺(せんゆうじ)とかやいふほとりにをさめ奉る。四条院と申すなるべし。やがてかの寺へ御荘(さう)など寄せて、今に御菩提(ぼだい)を祈り奉るもさきの世の故(ゆゑ)ありけるにや。

 この御門(みかど)、いまだ物などはかばかしくのたまはぬ程の御齢(よはひ)なりける時、たれとかや、「さきの世はいかなる人にておはしましけん」と、ただ何(なに)となく聞えたりけるに、かの泉涌寺の開山の聖(ひじり)の名をぞ確かに仰せられたりける。

 また人の夢にも、この御門かくれさせ給ひて後、かの上人(しやうにん)、「われすみやかに成仏すべかりしを、よしなき妄念(まうねん)をおこして、今一度(いちど)人界(にんがい)の生をうけ、帝王の位に至りて帰りてわが寺をたすけんと思ひしに、果してかくなん」とぞみえける。まことにその余執(よしふ)の通りけるしるしにや、御庄どもも寄りけんとぞ覚(おぼ)え侍(はべ)る。



井上宗雄氏の現代語訳

私の立場からの補足

 翌日すぐ御元服なさる。加冠の役には左大臣良実(よしざね)公が参られ、理髪の役は頭弁(とうのべん)定嗣(さだつぎ)が奉仕した。御名は邦仁。御年は二十三であった。その夜、さっそく冷泉万里小路殿(れいぜいまでのこうじどの)へお移りになり、閑院殿の内裏から三種神器などの渡御(とぎょ)があった。践祚(せんそ)の儀も結構なものであった。

邦仁王(後嵯峨天皇.1220〜1272.53歳)が日陰の身であったことは、23歳になっても元服すらしていなかったことに如実にあらわれている。
二条良実(1216〜1270.55歳)は二条家の祖。九条道家(1193〜1252.60歳)の次男であるが、父と折り合いが悪く、後に義絶された。なお、四条隆親は1231年、良実を「婿」にとっているが、この点についてはこちら。(秋山喜代子氏「乳父について」注103)
葉室定嗣(1208〜1272.65歳)
「泉涌寺とかやいふほとり」との表現には泉涌寺を侮っている気配が感じられる。泉涌寺についてはこちら。(小林海暢氏「月輪御陵と御寺泉涌寺」)
 その後になくなった先帝閑院殿には追号の定めや御葬儀の指示などがあった。二十五日に先帝を東山の泉涌寺(せんゆうじ)とかいう辺に埋葬申し上げる。四条院と申すのであろう。すぐそのお寺に荘園を寄進なさって、今でもなお四条天皇の御冥福を祈り申し上げるのも、前世からの御因縁あったからだろうか。

 四条天皇が、まだ物などもちゃんとおっしゃれないぐらい幼い御年齢であった時、だれかが、「前世はいったいどんな人でいらっしゃったのでしょう」と、ただなんということもなく申し上げたところ、あの泉涌寺の開山の坊さん(俊※.しゅんじょう)の名をはっきりおっしゃった。

四条天皇(1231〜1242.12歳)

※「荷」の「可」に替えて「乃」を入れた字。
俊じょう(1166〜1227.62歳)「字は不可棄(ふかき)、肥後の出身。19歳のとき太宰府観世音寺で受戒氏、以後、南都・京洛に学んだ。34歳のとき入宋し、戒律・天台・禅を学ぶこと12年、帰朝にあたり2千余巻の経論を将来した。栄西の招きで一時建仁寺に住したが、宇都宮信房が泉湧寺を寄進したのでこれに移り、台・律・禅・浄・密の五宗を兼修する道場とした。関東にも下向し、朝野の帰依をうけた。」(『岩波仏教辞典』)
俊じょうについて、より詳しくはこちら。(大三輪龍彦氏『鎌倉・室町人名事典』)
『五代帝王物語』を「参考」にして四条天皇崩御の事情を熟知していた『増鏡』の作者が、四条天皇が俊じょうの生まれ変わりだなとという話を本当に信じていたのか、かなり疑問である。
 またある人の夢にも、この天皇がなくなって後、例の俊※上人が、「自分は早く成仏すべきであったのだが、つまらぬ迷いの心を起して、もう一度人間界に生まれて、天皇の位について、たち帰って泉涌寺を助け興(おこ)そうと思ったが、果してこんなように思いが通った」というと見えた。ほんとうにそうした死後の執念が通ったあかしで、御庄園なども寄進されたのだろうと思われる。













『増鏡』作者の後嵯峨院に対する視線


 後嵯峨天皇の里内裏である冷泉万里小路殿は後深草院二条の祖父四条隆親(1203〜1279.77歳)の邸宅である。この点に関しては、『五代帝王物語』に次のような記述があり、「四条大納言隆親卿の家」である冷泉万里小路殿を誉めちぎっている。

 さて新帝はやがて廿日土御門殿にて御元服あり。左大臣(良実公)加冠、頭左中弁(定嗣朝臣)理髪也。今日、冷泉万里小路の御所へ入せ給て、賢所剣璽などわたしまいらせて践祚の儀あり。この御所は四条大納言隆親卿の家なり。閑院ふたがりぬるうへは、清涼殿造替にほど、さりぬべき所なきによりてこの家を御所とす。御脱徙ののちも、始中終この御所にわたらせ給ふ。めでたき所なり。

 「原文を見る」の「土御門院皇子(後嵯峨天皇)の生い立ち」でも述べたが、後嵯峨天皇は下図のとおり父方・母方とも源通親と密接な関係を有しており、その践祚に際しては源通親の息子の土御門定通が決定的な役割を果たしている。

 また、四条隆親が里内裏として自己の邸宅を提供し、後嵯峨天皇に対して極めて重要な支援をしたことは、後嵯峨親政・院政下の隆親の地位を高める契機となり、隆親は後に「正元二年院落書」で痛烈に批判されるほど権勢を振るうことになる。

 このように後嵯峨天皇践祚に関して後深草院二条の父方・母方が果たした役割は客観的に見ても極めて大きい上に、これに根が高慢でずうずうしい後深草院二条の主観を加味すれば、後深草院二条にとって後嵯峨天皇は<うちの親戚が天皇にしてあげた人>みたいな感じだったのではないかと想像されるのである。

 私は後深草院二条が『増鏡』と『五代帝王物語』の作者だと考えているが、この二つの歴史書は後嵯峨院の治世を極めて高く評価する一方で、どことなく後嵯峨院に対する冷ややかな視線を感じさせる部分も多い。
 私は、そのような冷ややかさは『増鏡』と『五代帝王物語』の作者が後嵯峨天皇を<うちの親戚が天皇にしてあげた人>と思っていたことから生じているのではないかと考えている。

 


    ┌─在子(承明門院)─土御門天皇-┐
通親-┤                       ├─後嵯峨天皇
    └─通宗──────-通子───┘



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