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 『増鏡』 巻4「三神山」 四条天皇崩御




原文


 年もかはりぬ。春のはじめは、おしなべて程々につけたる家々の身のいはひなど、心ゆきほこらしげなるに、睦月(むつき)の五日より内の上(うへ)例ならぬ御事にて、七日の節会(せちゑ)にも、御帳(みちやう)にもつかせ給はねば、いとさうざうしく人々思(おぼ)しあへるに、九日の暁(あかつき)かくれさせ給ひぬとてののしりあへる、いとあさましともいふばかりなし。

 みな人あきれまどひて、中々涙だに出でこず。女御もいまだわらは遊びの御さまにて、何心なくむつれ聞えさせ給へるに、いとうたていみじければ、うちしめり屈(くん)じてゐ給へるほど、幼(をさな)げにらうたし。大殿の御心のうち思ひやるべし。御せうとの若君(右大臣忠家)も殿上(てんじやう)し給へる、ただ御門(みかど)の同じ御程にて、さわがしきまでの御遊びのみにて明しくらさせ給ひけるに、かいひそみて群がりゐつつ鼻うちかみ、うち泣く人より外はなし。

 かくのみあさましき御事どものうち続きぬるは、いかにもかの遠き浦々にて沈み果てさせ給ひにし御霊(ごりやう)どもにや、とぞ世の人もささめきける。御なやみのはじめもなべてのすぢにはあらず、あまりいはけたる御遊びより、そこなはれ給ひにけるとぞ。いまだ御つぎもおはしまさず、また御はらからの宮なども渡らせたまはねば、世の中いかになりゆかんとするにか、とたどりあへるさまなり。



井上宗雄氏の現代語訳

私の立場からの補足

 年も改まった(仁治三年)。春の初めは、一般に、それぞれの身分に応じた家々の身の祝いなどをして、満足のいった得意らしい様子であるが、正月五日から天皇が御病気で、七日の白馬(あおうま)の節会(せちえ)にも、御帳台(みちょうだい)の玉座におつきにならないので、たいへん寂しく人々も思っていたが、九日の暁におなくなりになったといって大騒ぎをしているのは、まったく嘆かわしくていいようもない。

仁治3年は1242年。

第87代四条天皇(1231〜1242.12歳)は第86代後堀河天皇(1212〜1234.23歳)の第一皇子。四条天皇が若干12歳で亡くなったことにより、承久の乱後、幕府により治天の君に立てられた後高倉院の系統は断絶した。
 みな驚き途方にくれて、かえって涙さえ出て来ない。女御もまだ子供同士の遊びのような御様子で、何の心もなく主上に親しみ申されていたが、まことにたいへんな衝撃なので、しおれ、意気消沈しておられる様は、子供らしく、いじらしい。道家公の御心中も察しやられる。御弟の若君(忠家。十四歳)も殿上人でいらっしゃったが、ちようど天皇と同年配で、騒々しいほどの御遊びばかりで朝夕過しておられたのに、今はひっそりと人々が集まって、鼻をかみ泣く人より外の人はいない。

女御とは前年12月に入内したばかりの九条教実女、道家孫の彦子(後の宣仁門院.1227〜1262.36歳)のこと。なお、四条天皇の母は道家女の藻壁門院(そうへきもんいん.1209〜1233.25歳)。
九条道家(1193〜1252.60歳)についてはこちら。(『鎌倉・室町人名事典』)
九条忠家(1229〜1275.47歳)についてはこちら
 このようにあきれるほど情けない事などが続いたのは、いかにもあの遠い浦々でおなくなりになった方々の御霊(みたま)のたたりではないか、と世人もひそひそ語りあったのであった。御病気の初めも普通のことではなく、あまり幼椎な御遊びから、お体を害されたということである。まだ御跡継もいらっしゃらず、また御兄弟の宮などもおありにならないから、世の中はどうなって行こうとするのか、と迷って手探りしている様子である。

「あの遠い浦々でおなくなりになった方々」とは阿波の土御門院(1195〜1231.37歳)と隠岐の後鳥羽院(1180〜1239.60歳)のこと。順徳院(1197〜1242.46歳)は1242年正月の時点では生存しており、幕府は順徳院皇子の即位が順徳院の還幸・復活につながることを嫌った。



四条天皇崩御の事情について


 四条天皇が若干12歳で亡くなった事情について、『増鏡』では「御なやみのはじめもなべてのすぢにはあらず、あまりいはけたる御遊びより、そこなはれ給ひにけるとぞ。」(御病気の初めも普通のことではなく、あまり幼椎な御遊びから、お体を害されたということである。)と曖昧な表現を用いているが、『五代帝王物語』では、「主上あどけなくわたらせ給ひて、近習の人、女房などを倒して笑はせ給はんとて、弘御所に滑石の粉を板敷にぬりをかれたりけるに、主上あしくして御顛倒ありけるを……」と極めて詳細に記述している。

 つまり四条天皇は人を滑らせて笑ってやろうとして蝋石を塗っていたところ、自分が滑って転倒し、打ちどころが悪くて数日寝込んだあとにポックリ逝ってしまったという、まあ、歴代天皇史上これ以上情けない死に方をした人はいないくらい変な死に方をした天皇なのである。

 ただ、それはまだ数えで12歳という子供だから仕方がないのであって、問題はむしろ、このような不名誉な事実を露骨に描く『五代帝王物語』の側にある。読者が子孫に限定されている日記に書くとか、説話集などに正史では隠されたエピソードとしてちょっと書くとかいうのならともかく、明らかにそれなりに多数の読者を想定している歴史書(歴史物語)に、こうした事実を平然と書くということは、作者の性格がかなり悪いのではないかという感じを抱かせる。

 また、この部分には、「かくのみあさましき御事どものうち続きぬるは、いかにもかの遠き浦々にて沈み果てさせ給ひにし御霊(ごりやう)どもにや、とぞ世の人もささめきける。」(このようにあきれるほど情けない事などが続いたのは、いかにもあの遠い浦々でおなくなりになった方々の御霊(みたま)のたたりではないか、と世人もひそひそ語りあったのであった。)と怨霊話が出てくるが、この点は『五代帝王物語』はもっと徹底していて、怨霊話とかバケモノ話が山ほど出てくるのである。

 このような怨霊話・バケモノ話を根拠として、当時の人々は怨霊を極めて恐れていたのだが、宗教心を忘れた現代の学者にはそうした昔の人々の心情・世界観が理解できなくなっているのだ、という議論をする人がいて、それはそれで、ある程度はもっともな話と言えないこともない。

 ただ、世の中には今も昔もいろんなタイプの人がいるのであって、一方で怨霊を真剣に心配する人がいれば、普段は全然気にしないけれども何か悪いことがあったときに不安になる程度の人もいるし、また中にはそんなものは屁とも思わない人も存在していたに違いないのである。

 当たり前のことであるが、本当に怨霊が怖かったら武士などやっていられないのであって、さんざっぱら人を殺したあとで、寝覚めが悪いからちょっと仏事でもやっか、という程度の話も多かったはずである。

 また、これも全く当たり前のことであるが、怨霊話とかバケモノ話を書くことと、それを信じることは全く別であって、人が怖がるような話を作って喜んでいた人がいてもおかしくはないのである。『太平記』などには明らかにそうした怪談好きの人が創作した面白い話がたっぷり含まれているのであり、『増鏡』や『五代帝王物語』においても、怨霊話・バケモノ話の取り扱いには充分な注意が必要だと私は考える。この点は井沢元彦氏の著書などを素材として、別途詳しく検討したい。





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