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 『増鏡』 巻4「三神山」 即位、きつ子入内






原文


 さて、仁治三年三月十八日御即位、よろずあるべきかぎりめでたくて過ぎもつゆく。嘉禎三年よりは岡屋(おかのや)の大臣(おとど)兼経摂政にていませしかば、そのままに今の御代の初めも関白と聞えつれど、三月二十五日左の大臣(おとど)良実にわたりぬ。この殿も光明峰寺殿(くわうみやうぶじどの)の御二郎君なり。

 神無月になりぬれば、御禊(ごけい)とて世の中ひしめきたつも、思ひよりし事かはとめでたし。大嘗会(だいじやうゑ)の悠紀方(ゆきがた)の御屏風(びやうぶ)、三神山(みかみやま)、菅宰相為長(くわんさいしやうためなが)つかうまつられける。

いにしへに名をのみ聞きてもとめけん三神の山はこれぞその山

主基方(すきがた)、風俗歌(ふぞくのうた)、経光の中納言に召されたり。

末遠き千世(ちよ)の影こそ久しけれまだ二葉(ふたば)なるいはさきの松

 当代かくめでたくおはしませば、通宗宰相も左大臣従一位贈られ給ふ。御むすめ、后の位贈り申されし、いとめでたしや。

 まことや、このころ右大臣と聞ゆるは実氏(さねうぢ)の大臣(おとど)よ。その御女(むすめ)十八に成り給ふを女御にたてまつり給ふ。六月三日入内(じゆだい)あり。儀式ありさま、二(に)なくきよらをつくされたり。母北の方は四条大納言隆衡(たかひら)のむすめなり。いとささやかにあいぎやうづきて、めでたく物し給へば、御おぼえもかひがひしく、よろづうちあひ、思ふさまなる世の気色(けしき)、いへばさらなり。

 同じ年八月九日后に立ち給ふ。その程のめでたさ、いはんかたなし。源大納言の家にあやしう心細げなりし御程は、たはぶれにも、無品親王(むほんしんわう)にて、思ひより聞え給はざりけん、と、めでたきにつけても、人の口やすからず、さはとかく聞ゆべし。



井上宗雄氏による現代語訳

私の立場からの補足

 さて、仁治(にんじ)三年(1242)三月十八日御即位、万事あるべき限りのことがりっぱに行なわれて行く。嘉禎(かてい)三年(1237)からは岡屋(おかのや)の大臣兼経(かねつね)公が摂政でいらっしゃったので、そのまま新帝の御代の初めも関白と申し上げたが、三月二十五日関白職は左大臣良実(よしざね)公に遷った。この良実公も道家公の御二男である。

近衛兼経(1210〜1259.50歳)は近衛家実の子で、『とはずがたり』の「近衛大殿」に比定されている鷹司兼平(1228〜1294.67歳)は18歳下の異母弟。家実・兼経・兼平について、より詳しくはこちら

二条良実(1216〜1270.55歳)は二条家の祖。「後嵯峨天皇の仁治3年(1242)、ついに関白になったが、その後天皇の信任と父の寵愛が弟の一条実経に傾き、寛元4年(1246)正月心ならずも関白を実経に譲った。ついで同年起った名越光時の乱に将軍藤原頼経が連座して京都に送還され、頼経の父である道家も政界から引退を余儀なくされたが、道家はこの事件に関連して良実が北条氏に内通したものと疑い、良実を義絶した」(棚橋光男氏『鎌倉・室町人名事典』)

 十月になると、御禊(ごけい)が行なわれるというわけで世の中が騒ぎたつにつけても、これも予期していたことであろうか(考えてもいなかったことだ)、と思うと、たいそう結構なことだ。大嘗会(だいじょうえ)の悠紀方(ゆきがた)の御屏風、三神山(みかみやま)の歌を菅宰相為長(かんさいしょうためなが)が詠進された。

昔、その名前だけを聞いて、不老不死の薬をえようために求めたとかいう三神山は、近江のこの山である。

 主基方(すきがた)は、風俗歌(ふぞくうた)で、経光の中納言に召されたのである。

わが君の行末遠い、千年も先の姿が永久にみえるようだ。まだ二葉(ふたば)である石崎(いわさき)の松のように(この松のようにわが君も末長くお栄えになろうよ)。

菅原為長(1158〜1246.89歳)は菅原氏としては異例の昇進を遂げ、公卿に列した大学者。巻四の名「三神山」はこの歌による。
藤原(勘解由小路)経光(1212〜1273.62歳)は『勘仲記』の著者兼仲の父。
 今上(きんじょう.新帝)がこんなにめでたくおられるので、外祖父の通宗(みちむね)宰相も左大臣従一位を贈られなさった。その御娘(すなわち今上の御母)も后(皇太后)の位を贈り申されたとか、ほんとうに結構なことであるよ。

源通宗(1168〜1198.31歳)は通親の子。
 さてさて、このころ右大臣と申し上げるのは実氏公である。その御娘の十八歳になられる方(※子)を女御にお立てになられた。六月三日入内(じゅだい)の儀があった。儀式などの様子は、類がなく善美を尽された。母北の方は四条大納言隆衡(たかひら)の娘である。女御はたいへん小柄で、かわいらしく、美しくいらっしゃったので、御寵愛も実に厚くて、万事にお似合いで、思いどおりに行く世の有様は、あらためていうべきこともない。

西園寺実氏(1194〜1269.76歳)
※女へんに「吉」
※子(大宮院.1225〜1292.68歳)
四条隆衡(1172〜1254.83歳)

中院通方(1189〜1238.50歳)は中院家の祖。久我通光の2歳下の同母弟。

この最後の部分は、『増鏡』の作者が「人の口」を客観的に紹介するようなふりをして、自分自身の後嵯峨院に対する見方を辛辣に述べている箇所のように思われる。
 源大納言(通方)の家に、おそまつに心細そうに住んでいたころは、無品(むほん)親王なので、かりそめにも、こんなに栄えようとは考えつかれただろうか、と、結構な御様子であるにつけても、人の口はうるさく、そんなふうに、何やかやと申しあげるようだ。




大宮院をめぐる人間関係

 人間関係が複雑なので、ここで※子(大宮院.1225〜1292.68歳.院号宣下は1248年、24歳の時)を中心として少し整理しておきたい。

 大宮院の父は西園寺実氏(さねうじ.1194〜1269.76歳)で、大宮院は公経(きんつね.1171〜1244.74歳)の孫にあたる。西園寺家は実氏・公相(きんすけ.1223〜1267.45歳)・実兼(さねかね.1249〜1322.74歳)と続き、『とはずがたり』で「雪の曙」に比定されている実兼から見れば大宮院は叔母(父の2歳下の妹)である。

 大宮院の母は四条隆衡(1172〜1254.83歳)の娘、107歳という驚異的な長寿の人貞子(北山准后.1196〜1302)であり、貞子は後深草院二条の祖父四条隆親(1203〜1279.77歳)の7歳上の姉でもある。

 そして実氏と貞子の間に生まれた大宮院が、1242年、即位したばかりの5歳上の後嵯峨天皇に入内し、二人の間には後深草天皇(1243〜1304.62歳)・月華門院(1247〜1269.23歳)・亀山天皇(1249〜1305.57歳)らが生まれる。

 一方、大宮院の7歳下の妹公子(東二条院.1232〜1304.73歳)は、1256年11歳下の後深草天皇に入内することになる。叔母と甥の結婚というのは現代人から見れば変な感じがするが、血統を重視していた当時の貴族社会ではそれほど変なことでもなかったのである。

 このように後嵯峨天皇中宮の大宮院は権門西園寺家出身、母方は富裕を誇った四条家、二人の子が天皇になるという具合に、およそ当時の貴族社会において、これ以上恵まれた女性は考えにくいほどで、そのことは『増鏡』巻10「老の波」にも縷々述べられているが、この人を後深草院二条がどのように見ていたかについては、『とはずがたり』巻1の「前斎宮帰京、院大宮院に作者を語る」の場面に興味深い記述がある。

 それは東二条院と対立し、その御所への出入りを差し止められてしまった後深草院二条に対し、大宮院が親切な言葉をかけてくれる場面である。

 まことにいかが御覧じはなち候ふべき。宮仕ひはまた、しなれたる人こそしばしも候はぬは、たよりなきことにてこそ」など申させ給ひて、「何ごとも心おかず、われにこそ」など情あるさまに承るも、いつまで草のとのみおぼゆ

 (次田香澄氏訳)ほんとうに、どうしてお見放しになってよろしゅうございましょう。宮仕えはまた、し慣れた人がしばらくでもおりませんと、たよりないものですよ」とおっしゃられて、(私へも)「何ごとも心おきなくわたしに相談なさい」とお情け深い様子にお言葉があるにつけても、このような御好意も、ほんとうにいつまで続くことやらと思う。

 1258年生まれの後深草院二条より33歳年上の二代の国母大宮院が親切な言葉をかけてくれたのに対し、「いつまで続くことやら」と冷ややかに受け取る17歳の後深草院二条であり、毎度のことながら、その性格の悪さに唖然としてしまうのである。





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