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| 原文 日ぐらし待たれて、城介義景(じやうのすけよしかげ)といふ者、三条河原にうち出(い)でて、「承明門院のおはしますなる院はいづくぞ」と、かの院よりたてられたる青侍(あをさぶらひ)の、いとあやしげなるにしも問ひければ、聞く心地うつつとも覚えず。しかじかと申すままに、土御門殿(つちみかどどの)へ参りたれど、門はむぐら強く固め、扉(とびら)もさびつき、柱くちてあかざりけるを、郎等(らうどう)どもにとかくせさせて、内に参りて見まはせば、草深く苔(こけ)むして、人の通へるあともなし。 故通宗宰相(みちむねさいしやう)中将の、弟を子にし給へりし定通の大臣(おとど)、何(なに)となく、おのづからの事もやと思ひて、なえばめる烏帽子(えぼし)、直衣(なほし)にてさぶらひ給ひけるが、中門(ちゆうもん)に出(い)でて対面し給ふ。義景は切戸(きりど)のわきにかしこまりてぞ侍(はべ)りける。「阿波(あは)の院の皇子(みこ)御位に」と申して出(い)でぬ。院の内の人々上下夢の心地(ここち)して、物にぞあたりまどひける。 仁治(にんぢ)三年正月十九日の事なり。世の人の心地みな驚きあわてて、おし返しこなたに参り集(つど)ふ。馬・車の響きさわぐ世のおとなひを、四辻殿(よつつじどの)にはあさましう、なかなか物思(おぼ)しまさるべし。 |
| 井上宗雄氏の現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| 一日じゅう人々に待たれて、城の介義景(よしかげ)という者が三条河原に出て、「承明門院のいらっしゃるという御所はどこか」と、その女院から遣(つか)わされている青侍(あおざむらい)で、たいそうみすぼらしい者に尋ねたので、それを聞く気持はまったく現実のこととも思われず、夢のようであった。「これこれです」と申すのにしたがって、土御門殿に参上したが、門は葎(むぐら)がしっかりと覆い、扉(とびら)の金具もさびつき、柱はくさっており、開かないのを、家来たちにあれこれさせて、内にはいって見まわすと、草深く茂り、苔(こけ)むして人の通った跡もない。 |
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| 故通宗(みちむね)宰相中将は、その弟を養子になさっていたが、その定通(さだみち)の大臣がなんとなく、万一の場合もあろうかと思って、糊気(のりけ)も失(う)せてよれた烏帽子(えぼし)・直衣(のうし)で伺候しておられたが、中門に出て対面なさる。義景は切戸(きりど)の脇にかしこまっていた。「阿波の院の皇子が御位につかれますように」と申して退出した。院の内の人々は上下を問わず夢の心地がして、物にぶつかるほどうろたえ慌てた。 |
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| 仁治三年(1242)正月十九日のことである。世人の気持はみな驚きあわてて、今までと反対にこちらの院に参集した。馬・車の響き騒ぐ世の物音を、修明門院の四辻殿(よつつじどの)では、情けなく聞いて、かえっていろいろと物思いのまさられることであろう。 |
| 劇的すぎる東使上洛の場面 井上宗雄氏は「この東国の使者の、皇位継承を告げる件(くだり)が、『増鏡』の中でも最も劇的な場面の一つになっているのは確かだろう。」と言われており、この点は私も賛成であるが、ただ正直言って、「劇的」であるのを超えて、ちょっとやりすぎでわざとらしい感じもするのである。 例えば、承明門院がいた土御門殿について「土御門殿へ参りたれど、門はむぐら強く固め、扉もさびつき、柱くちてあかざりけるを、郎等どもにとかくせさせて、内に参りて見まはせば、草深く苔むして、人の通へるあともなし(門は葎がしっかりと覆い、扉の金具もさびつき、柱はくさっており、開かないのを、家来たちにあれこれさせて、内にはいって見まわすと、草深く茂り、苔むして人の通った跡もない。)」などと書いているが、承明門院のような女院にはその地位にふさわしい経済的処遇がなされているし、また有力な親戚も多いのであるから、少なくともは御所の修理がきちんとできないほど貧しかったはずがないのである。 また、土御門定通は北条義時の娘(泰時の妹)を妻としていた縁で、泰時に後嵯峨天皇の登位を積極的に働きかけていたのであって、「何となく、おのづからの事もやと思ひて、なえばめる烏帽子、直衣にてさぶらひ給ひける(なんとなく、万一の場合もあろうかと思って、糊気も失せてよれた烏帽子・直衣で伺候しておられた」などというのも極めて不自然なのである。 つまり、『増鏡』では東使が皇位継承者を告げる場面を劇的なものに盛り上げるために、いろいろわざとらしい操作をしているのであるが、これは『増鏡』独自になされているのではなく、明らかに『五代帝王物語』を参考にしている、というか殆ど丸写しにしているのである。 この部分は『五代帝王物語』では次のようになっている。(井上宗雄氏が類従本により適宜表記を改めたもの。)
つまり、皇位継承者を告げる場面を劇的なものに盛り上げるためのわざとらしい操作は『増鏡』が『五代帝王物語』から受け継いでいるのである。 少し気になるのは、『五代帝王物語』には、井上宗雄氏が引用している上記の部分に続いて、「後まで尼にて承明門院に候し弁局と申す女房は、されば是はまことかやとて、あしこここのめんたうに倒れありきける。理におぼえておかしく侍ける」とあり、作者がにんまりと笑っているのである。 ここで『増鏡』に戻ると、この東使上洛の場面自体には作者が笑っているところはないが、その直前の部分で、「例の口すげみてほほゑむ(老尼は例の如く口をすぼめてほほえんだ。)」と、めったに登場しない語り手の老尼が唐突に登場して、にんまりと笑っているのである。 私はこれはやはり作者のサインだと思う。作者はこの東使上洛の場面を劇的に盛り上げるために、事実とは異なることを承知の上で、いろいろ面白おかしく話を作り上げているのであり、ちょっとやり過ぎかなあという一種の照れ隠しと、読者への謎掛けのようなつもりで、ここに老尼を登場させて、この場面の意味を考えさせようとしているのではないかと思うのである。 そして、このようなわざとらしい話に元ネタを提供している『五代帝王物語』も相当に怪しいのであって、私はこちらも後深草院二条が書いたのではないかと疑っているのである。 |