up12.1/26
| 原文(『増鏡』(上)全訳注.p280) あくる年は建長五年なり。正月三日御門(みかど)御冠(かうぶり)し給ふ。御年十一、御いみな久仁と申す。いとあてにおはしませど、余りささやかにて、また御腰などのあやしくわたらせ給ふぞ、口惜(くちを)しかりける。 いはけなかりし御程は、なほいとあさましうおはしましけるを、閑院内裏(かんゐんだいり)やけけるまぎれより、うるはしく立たせ給ひたりければ、内裏の焼けたるあさましさは何(なに)ならず、この御腰のなほりたる喜びをのみぞ、上下思(おぼ)しける。 院の上(うへ)、鳥羽殿におはします頃、神無月の十日頃、朝覲(てうきん)の行幸し給ふ。世にあるかぎりの上達部(かんだちめ)、殿上人(てんじやうびと)つかうまつる。色々の菊、紅葉(もみぢ)をこきまぜて、いみじうおもしろし。女院(によゐん)もおはしませば、拝し奉(たてまつ)り給ふを、大き大臣(おとど)、見奉り給ふに、悦(よろこ)びの涙ぞ人わろき程なる。
こし方もためしなきまで、高麗(こま)・唐土(もろこし)の錦綾(にしきあや)をたちかさねたり。大き大臣(おとど)ばかりぞねび給へれば、うらおもて白き綾(あや)の下襲(したがさね)を着給へりしも、いてめでたくなまめかし。池にはうるはしく唐(から)のよそひしたる御舟二さう漕(こ)ぎ寄せて、御遊びさまざまの事ども、めでたくののしりてかへらせ給ふ響きのゆゆしきを、女院も御心行きて聞しめす。 |
| 井上宗雄氏による現代語訳 |
|
翌年は建長五年(1253)である。後深草天皇は御元服なさる。御年十一、御諱(いみな)は久仁と申し上げる。たいへんけだかくいらっしゃったが、ひどく小柄で、また御腰などが普通の状態でおありにならなかったのは残念な御事であった。 御幼少のころには、もっと御病気がひどくいらっしゃったが、閑院内裏(かんいんだいり)が焼けた騒ぎにきちんとお立ちなさったので、内裏の焼けた情けなさなどは何でもないことで、この御腰がなおったことばかりを、どなたも喜ばしく思われたのであった。 上皇が鳥羽殿にいらっしゃる折、十月十日ごろ、(天皇が)朝覲(ちょうきん)行幸なさる。すべての公卿・殿上人が供奉(ぐぶ)する。いろいろの菊襲(きくがさね)や紅葉襲(もみじがさね)の服装を混ぜ合わせていてたいそうおもしろい。母君大宮院も鳥羽殿におられるので、天皇が拝しなさるのを、太政大臣実氏公は見申し上げなさって、うれし涙が体裁の悪いほどこぼれるのであった。
過去にも例のないほど、(人々は)朝鮮や中国渡来の錦や綾の装束を着重ねている。実氏公だけお年を召されているので、裏表白い綾の下襲(したがさね)を着ておられるのも、かえってたいへんりっぱで優雅である。池には美しい中国風の装飾をした(竜頭鷁首の)御舟二艘が漕ぎ寄せて、管絃の御遊など、さまざまなことがあって、めでたくにぎわいたててお帰りになる騒ぎが大した様子であるのを、大宮院も御満足に感ぜられてお聞きになるのである。 |
| ※三田村雅子氏は宗尊親王が周囲からどのように見られていたかを述べるに際し、後深草天皇を引き合いに出して「后腹の後深草の身体に障害があり、腰が据わらず、歩くことも困難であった」と言われていますが(「鎌倉宮将軍の源氏物語絵−宗尊親王の源氏物語色紙絵屏風
」)、この記述の根拠となっているのが『増鏡』のこの場面です。 私は『増鏡』の記述が事実だとは思いませんが、その点は『増鏡』などより遙かに信頼できる『弁内侍日記』などに基づいて検討する予定です。 なお、『とはずがたり』巻5の熊野参詣の場面でも、後深草院二条が見た夢に、父雅忠・遊義門院とともに「御かたわ」の後深草院が登場しますが、この夢の解釈も後日行います。 |

工事中