up13.4/5


原文を見る
 『増鏡』巻5「内野の雪」 順徳院崩御






原文

仁治三年九月十二日佐渡院かくれさせ給ひぬ。世の中うつりかはりしきざみ、もしやなど思(おぼ)されしも空しくて、いよいよ隔たり果てぬる世を、心細く思し嘆きけるつもりにや、さしもとりたてたる御悩みなどはなくてうせさせ給ふに、折あはれなる御事どもなり。四十六にぞならせ給ひける。



井上宗雄氏による現代語訳

私の立場からの補足

 仁治三年(1242)九月十二日佐渡院(順徳院)がおなくなりになった。御代の変わった折に、もしかしたら(帰京できるのではないか)と思われた頼みもむなしく、いよいよ世間から遠ざかってしまったわが境遇を、心細く思い嘆かれたその結果であろうか、そんなにとりたてていうほどの御病気などはなくておなくなりになったので、折も折あわれ深い御事ではある。四十六歳におなりであった。
1242年は時代の大きな変化を人々に感じさせる年となった。まず、正月9日に四条天皇が亡くなり、北条泰時は順徳院皇子の忠成王を推す九条道家らの思惑を排して後嵯峨天皇践祚を断行したが、その泰時自身が4月に過労で伏し、赤痢を併発して6月15日に没した。そして1221年の承久の乱敗北以来佐渡に流謫の身となっていた順徳院が、我が子の践祚と帰京の夢を断ち切られて9月12日崩御となった。
 なお、順徳院の子孫の存在は後嵯峨院にとって「潜在的な脅威を一貫して与えつづけていたと考えられる」(菊地大樹氏「宗尊親王の王孫と大覚寺統の諸段階」)。






トップページ 『増鏡』INDEX 前の場面 次の場面