更新12.1/26 up12.1/23
| 原文(『増鏡』(上)全訳注.p274) さても院の第一の皇子(みこ)は、右中弁(うちゅうべん)平棟範(むねのり)のぬしの女(むすめ)、四条院に兵衛内侍(ひやうゑのないし)とてさぶらひしが、剣璽(けんじ)につきて渡り参れりしを、忍び忍び御覧じける程に、その御腹に出(い)で物し給へりしかど、当代生(む)まれさせ給ひにし後は、おし消(け)たれておはしますに、また建長元年后腹に二の宮さへさしつづき光り出(い)で給へれば、いよいよ今は思ひ絶えぬる御契(ちぎ)りの程を、私物(わたくしもの)にいと哀(あは)れと思ひ聞えさせ給ふ。 源氏にやなし奉らましなど思(おぼ)すも、猶(なほ)あかねば、ただ皇子(みこ)にて東(あづま)のあるじになし聞えてんと思(おぼ)して、建長四年正月八日院の御前にて御冠(かうぶり)し給ふ。御門(みかど)の御元服にもほとほと劣らず、内蔵寮(くらづかさ)なにくれ、清(きよ)らを尽し給ふ。やがて三品(さんぽん)の加階賜はり給ふ。御年十一なるべし。中務(なかつかさ)の卿宗尊(むねたか)の親王と申すめり。 同じ二月十九日都を出(い)で給ふ。その日将軍の宣旨(せんじ)かうぶり給ふ。かかる例(ためし)はいまだ侍(はべ)らぬにや。上下めづらしくおもしろき事にいひさわぐべし。御迎へに東(あづま)が武士どもあまたのぼる。六波羅よりも名ある者十人、御送りに下(くだ)る。上達部(かんだちめ)、殿上人(てんじやうびと)、女房など、あまた参るも、「院中の奉公にひとしかるべし。かしこにさぶらふとも、限りあらん官(つかさ)、かうぶりなどはさはりあるまじ」とぞ仰(おほ)せられける。何事もただ人がらによと見えたり。きはことによそほしげなり。 まことにおほやけと成り給はずは、是(これ)よりまさる事、なに事かあらん、と、にぎははしく花やかさは並ぶかたなし。院の上(うへ)も忍びて粟田口(あはたぐち)のほとりに御車をたてて御覧じ送りけるこそ、あはれにかたじけなく侍(はべ)れ。きびはにうつくしげにて、はるばるとおはしますを、御母の内侍(ないし)も、あはれにかたじけなしと思ひ聞ゆべし。 かかればもとの将軍頼嗣(よりつぐ)三位中将は、その四月に都へ上(のぼ)り給ひぬ。いとほしげにぞ見え給ひける。さて、今くだり給へるを、もてあがめ奉(たてまつ)るさま、いはんかたなし。宮の内(うち)のしつらひ、御まうけの事など、限りあれば、善見天(ぜんげんてん)の殊妙(しゆめう)の荘厳(しやうごん)もかくやとぞ覚えける。かやうにして今年は暮れぬ。 |
| 井上宗雄氏による現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| さて、院の第一皇子宗尊(むねたか)親王は、右中弁(うちゅうべん)平棟範(むねのり)朝臣(あそん)の娘、四条院に兵衛内侍(ひょうえのないし)といって参仕していた方が、剣璽(けんじ)の新帝渡御(とぎょ)に従って参ったのを、内々御寵愛なさっている内(うち)に、その御腹にお生まれになったのだが、今上(きんじょう)(後深草天皇)がお生まれになった後はそちらの御威勢に押されていらっしゃったところ、また建長元年に后腹(きさきばら)で二の宮(亀山天皇)まで続いてお生まれになったので、いよいよ今は皇位の御望みも絶えてしまった御宿命の浅さを、上皇は格別な愛子(いとしご)として、たいそういとしく思い申しなさる。 |
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| 賜姓源氏にいたすのはどうだろうか、などと思われたが、それもやはり御不満なので、ただの親王として関東の将軍にして差し上げようと思われて、建長四年正月八日院の御前で元服なさる。後深草天皇の御元服にもほとんど劣らず、内蔵寮(くらりょう)の物、何やかやで、善美をお尽しになる。すぐ三品の位を賜わりなさった。御年は十一歳であろう。中務卿(なかつかさきょう)宗尊親王と申すようだ。 |
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| 同年二月十九日都を御出立になる。その日将軍の宣旨(せんじ)をお受けなさる。このような例はまだないのではないか。上下の人々は珍しくも興味あることとして騒いでいるようだ。お迎えに関東の武士がたくさん上洛する。六波羅からも、名のある武士十人がお送りのため下向(げこう)する。
公卿(くぎょう)・殿上人(てんじょうびと)・女房などが多くお供して下るのに対しても、上皇は「院中の奉公と同じことに取扱おうぞ。鎌倉に参仕しても、各自の家柄・階層に応ずる官位などには少しも差支えないようにしよう(きちんと叙任してやろう)」と仰せられた。何事もその人柄によって定まるものと見えた。ずばぬけて美々(びび)しい様子である。 |
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| ほんとうのところ、天皇になられるのでなかったら、将軍よりよいものに何があるだろう(これが一番だ)、と思われるほどで、にぎやかで花やかな様子は並ぶものがない。上皇もひそかに粟田口(あわたぐち)のあたりに御車を停(と)めて見送りなさったのは、しみじみと感深く、おそれおおい。幼少で可愛らしい御様子で、はるばる御下向なさるのを、御母の内侍(ないし)も、身に染みていとおしくもったいないと思い申し上げることだろう。 こんなわけなので、もとの将軍頼嗣三位中将は、その四月御帰洛になった。おいたわしいようにおみえになった。さて新たに下られた親王将軍を鎌倉の人々があがめ奉る有様は、何ともいいようのない程である。御殿の中の設備、支度などは、これ以上のことはできないという程なので、善見城(ぜんげんじょう)殊勝殿の、おごそかで美しい飾りつけも、このようであろうかと思われた。こうして建長四年も暮れた。 |