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| 原文 その年の八月廿八日、春宮十一にて御元服し給ふ。御いみ名恒仁(つねひと)と聞ゆ。世の中にやうやうほのめき聞ゆる事あれば、御門(みかど)はあかず心細う思(おぼ)されて、夜居(よゐ)の間のしづかなる御物語りのついでに、内侍所(ないしどころ)の御拝(ごはい)の数を数へられければ、五千七十四日なりけるを承りて、弁内侍(べんのないし)、
かくて十一月廿六日おりゐさせ給ふ夜、空の気色(けしき)さへあはれに、雨うちそそぎて、物がなしく見えければ、伊勢の御(ご)が「あひも思はぬももしきを」といひけんふるごとさへ、今の心ちして心細くおぼゆ。 上(うへ)も思(おぼ)しまうけ給へれど、剣璽(けんじ)の出(い)でさせ給ふ程、常の行幸(みゆき)に御身を離れざりつる習ひ、十三年の御名残、ひきわかるるは、なほいとあはれに忍びがたき御気色(みけしき)を、かなしと見奉りて、弁内侍、
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| 井上宗雄氏による現代語訳 |
私の立場からの補足 | |
その正元元年(1259)の八月二十八日、東宮は十一歳で元服なさる。御いみ名は恒仁(つねひと)と申しあげる。世間で(上皇は、早く東宮を践祚させたいお気持らしいなど)だんだんとうわさされていることがあるので、天皇は御不満に心細く思われて、夜、宿直で人々が詰めているとき、しんみりと物語りなさったついでに、内侍所(ないしどころ)において拝された日数をお数えになると、五千七十四日になった、というのを承って、弁内侍(べんのないし)の歌、
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| こうして十一月二十六日譲位なさるその夜、空の様子までもしみじみと哀れで、雨が降りそそいで、なんとなく悲しくみえたので、あの伊勢の御(ご)が、「もうおたがいに相思うこともない宮中なのに」と詠んだとかいう昔のことまでも、現在のことのような気がして、心細く感ぜられる。 |
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天皇も予期されていたことだが、剣璽(けんじ)が新帝の方へ渡御(とぎょ)されるとき、これまで行幸にはいつも御身を離れなかった習慣として、十三年間の(思い出も)御名残が惜しく、いま別れるのはやはりたいそう悲しくて堪えられぬ御様子であるのを、弁内侍は悲しいこととお見あげ申して、次のように詠んだのであった。
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