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 『増鏡』巻6「おりゐる雲」 後嵯峨上皇高野御幸



原文


 明くる年八月七日二の御子坊にゐ給ひぬ。御年十なり。よろづ定まりぬる世の中、めでたく心のどかにおぼさるべし。

 そのまたの三月廿日なりしにや、高野御幸(かうやごかう)こそ、またこしかた行末もためしあらじと見ゆるまで、世のいとなみ、天(あめ)の下のさわぎには侍りしか。関白殿、前右大臣、内大臣、左右の大将、検非違使(けびゐし)の別当(べつたう)をはじめ残るは少なし。

 馬(むま)・鞍・随身(ずいじん)・舎人(とねり)・雑色(ざふしき)・童(わらは)の、髪・かたち・たけ・姿まで、かたほなるなくえりととのへ、心を尽くしたる装ひども、かずかずは筆にも及びがたし。かかる色もありけり、と珍しくおどろかるる程になん。

 銀(しろがね)・黄金(こがね)をのベ、二重三重の織物・うち物、唐(から)・大和(やまと)の綾錦(あやにしき)、紅梅の直衣(なほし)、桜の唐(から)の綺(き)の紋、こ裾濃(すそご)、浮線綾(ふせんりよう)、色々さまざまの直衣、うへのきぬ、狩衣に、思ひ思ひの衣(きぬ)を出(いだ)せり。いかなる竜田姫(たつたひめ)の錦も、かかるたぐひはありがたくこそ見え侍りけれ。

 かたみに語らふ人はあらざりけめど、同じ紋も色も侍らざりけるぞ、不思議なる。余りに染め尽くして、なにがしの中将とかや、紺むら濃(ご)の指貫(さしぬき)をさへ着たりける。それしも珍らかにて、いやしくも見え侍らざりけるとかや。院の御さまかたち、所がらはいとど光りを添へてめでたく見え給ふ。

 後土御門内大臣定通の御子顕定(あきさだ)の大納言、大将のぞみ給ひしを、院もさりぬべく仰せられければ、除目(ぢもく)の夜、殿の中のものどもも心づかひして侍るを、心もとなく思ひあへるに、ひきたがへて、先に聞えつる公基の大臣(おとど)にぞおはせしやらん、なり給へりしかば、怨みにたへず、頭(かしら)おろしてこの高野にこもりゐ給へるを、いとほしくあへなしと思(おぼ)されければ、今日の御幸(ごかう)のついでに、かの室(むろ)をたづねさせ給ひて、御対面あるべく仰せられ遣(つかは)したるに、昨日までおはしけるが、夜の間(ま)に、かの庵(いほり)をかき払ひ、跡もなくしなして、いと清げに、白き砂子(すなご)ばかりを、ことさらに散らしたりと見えて人もなし。わが身は桂(かつら)の葉室(はむろ)の山庄へ逃げ上り給ひにけり。

 そのよし奏すれば、「今更に見えじとなり。いとからい心かな」とぞのたまはせける。



井上宗雄氏による現代語訳

私の立場からの補足

 翌正嘉(しょうか)二年(1258)八月七日上皇の第二皇子が皇太子に立たれた(後の亀山天皇)。御年十歳であった。万事すっかり決まって落ち着いた世の中を、上皇はめでたく、御心安らかに思われることであろう。

 その翌年の三月であったか、上皇の高野御幸は、これはまた過去にも将来にも例があるまいと見えるほど、世をあげての大仕事で、天下の騒ぎであった。関白兼平(かねひら)公、前右大臣公相(きんすけ)公、内大臣実雄(さねお)公、左大将基平(もとひら)、右大将公親(きんちか)、検非違使別当隆行(たかゆき)をはじめ、都に残る人は少ない。

 馬・鞍・随身(ずいじん)・舎人(とねり)・雑色(ぞうしき)・童(わらわ)の髪や格好、背丈、容姿に至るまで、不十分な点のない者を選びそろえて、工夫を凝らした装いなど、一々は筆にも記し難い。こういう色もあるのだなあ、と珍しく、つい驚いてしまうほどであった。

恒仁親王(亀山院.1249〜1305.57歳)
正嘉2年(1258)8月7日の恒仁親王立太子の記事に続けて「そのまたの三月廿日なりしにや」となっているので、『増鏡』によれば高野御幸は正嘉3年(3月26日に改元されて正元元年)のことのように書かれているが、実際は正嘉2年3月に行われた。なお、『五代帝王物語』では正嘉元年の出来事になっている。

三条公親(1222〜1292.71歳)
四条隆行(1207〜?)は四条隆親(1203〜1279.77歳)の異母兄隆綱(1189〜?)の子。隆親は母が坊門信清(1159〜1216.58歳)の娘なので14歳上の兄を差し置いて嫡子となった。坊門信清の妹七条院は後鳥羽院の母であるので、隆親の母は後鳥羽院の従姉妹にあたる。また鎌倉幕府第三代将軍実朝室(八条禅尼.1193〜1274.82歳)も坊門信清の娘で、隆親の叔母である。


「なにがしの中将とかや、紺むら濃の指貫をさへ着たりける。それしも珍らかにて、いやしくも見え侍らざりけるとかや。」とあるが、『五代帝王物語』の高野御幸の記事に中将として登場するのは四条隆顕(1243〜?)のみであり、そこでは「宰相中将隆顕卿、殊にきらきらしく出立て、行粧おびたゞしかりしに云々」と書かれている。
 金銀を薄く延ばして飾りとし、二重(ふたえ)・三重(みえ)の織物、艶を出した布、唐や日本の綾錦、紅梅の直衣(のうし)、桜がさねの唐織の綺(き)の紋、こ裾濃(すそご)、浮線綾(ふせんりょう)、いろいろさまざまの直衣や袍(ほう)や狩衣(かりぎぬ)を着て、その下に思い思いに着た衣を裾から見えるように出している。どんな(霊妙な力を持つ)秋の女神竜田姫でも、これほど美しい衣を織り出すのは困難であろうと見えた。

 (事前に)おたがいに相談することはなかっただろうが、同じ模様も色合いもなかったのは不思議である。あまりにも染め方が凝りすぎて、なんとかいう中将は紺村濃(こんむらご)の指貫(さしぬき)までもつけていたが、そういうものも珍しくて、下品にはみえなかったとかいうことだ。上皇の御容姿は、場所がらだけに、いちだんと光彩を添えて、りっぱに見えられた。

 後土御門内大臣定通の御子顕定(あきさだ)の大納言が大将になりたいと望んでいたのを、上皇もよかろうと思われたので、除目(じもく)の夜、お家の人々もそのつもりでいて、除目の儀式が終るのを待遠しく思いあっていたところ、予想とは違って、前にお話しした公基の大臣でいらっしゃったか、大将になられたので、顕定は恨めしくてたまらず、剃髪(ていはつ)してこの高野山にこもっておられたのを、上皇は気の毒に、また、はかないことにも思われていたので、今日の御幸のついでに、顕定の庵室(あんしつ)をお訪ねになって、御対面あるべき旨を仰せ遣わしたところ、昨日までおられたが、夜の間にその庵をひき払って、跡もすっかり片づけて、たいへんさっぱりと、白い砂だけをわざわざまき散らしたという様子で、人もいない。自身は洛外の桂の葉室(はむろ)の山荘へ逃げ上られたのであった。

 その旨を奏上すると、「今さら私に会うまいというのだな。たいそうきつい心だ」とおっしゃった。
土御門定通(1188〜1247.60歳)の長男顕定(1215〜1283.69歳)が近衛大将になれないのを恨んで突如出家し高野山に籠もったのは1255年のことであるが、西園寺公基(1220〜1274.55歳)は既に1253年に右大将となっており、1255年の時点で顕定と大将の地位を争ったのは西園寺公基ではない。1255年に右大将となっているのは三条公親である。

後嵯峨院(1220〜1272.53歳)



高野御幸について


 この高野御幸の場面は、それが実際に行われたのは後深草院二条が生まれた年である正嘉2年(1258)なのに、『増鏡』では正嘉3年、『五代帝王物語』では正嘉元年のこととされているなど極めて奇妙な点が多く、私は以前に検討したときに次のように考えてみた。(「二条作者説の根拠−その3」

 結局、これは正嘉3年の顕定の大納言の事件のように言っているけれども、実は正嘉2年生まれの二条が自分自身のことを言っているのではないかという感じがするのである。もともと正規のきちんとした地位につけてもらう約束になっていたのに、後深草院が西園寺家出身の東二条院に遠慮して、二条をいつまでも女房の身分にとどめていたから、アタマにきた二条は自分から宮廷を飛び出した。反省した後深草院が、未練たらしく、戻ってこいよ、と言ってきたのに対し、二条は、後深草院のもとに帰るのを、「やなこった」ときれいさっぱり拒絶した。とうとう後深草院は音を上げて「今さら私に会うまいというのだな。たいそうきつい心だ」とおっしゃった、という訳ではないだろうか。自分の人生を実に巧妙に歴史物語のなかに織り込んで、公的な歴史物語の一部を、ちゃっかり自分の回想録に変換しているのではないだろうかという感じがするのである。

 私がこのように考えた出発点は、『増鏡』の作者は明らかに膨大な史料を利用できる環境にいるのだから、「こしかた行末もためしあらじと見ゆるまで、世のいとなみ、天の下のさわぎには侍りし(過去にも将来にも例があるまいと見えるほど、世をあげての大仕事で、天下の騒ぎであった)」はずの高野御幸の行われた年について、「そのまたの三月廿日なりしにや(その翌年の三月であったか)」などと思ったら、ちょっと調べればいいじゃないか、という素朴な疑問である。

 つまり調べれば簡単に分かることをわざわざぼかして表現している点に、『増鏡』の作者の作為を感じたのであるが、改めてこの高野御幸の場面を読み直してみると、同じ様な作為を感じさせる部分がもう2箇所ある。「なにがしの中将とかや」と「先に聞えつる公基の大臣にぞおはせしやらん」である。

 まず「なにがしの中将とかや」であるが、これは『増鏡』の作者が史料として「参考」にしていることが明らかな『五代帝王物語』を見れば、対応する部分に中将として登場するのは四条隆顕(1243〜?)のみであり、そこには「宰相中将隆顕卿、殊にきらきらしく出立て、行粧おびたゞしかりしに」と書かれているのである。

 『五代帝王物語』では続けて「父の大納言隆親卿は善勝寺の出納四五人ばかり雑色につくりたてて、白張きせて、白木の柄長ひさごもたせて、世にははれのあるとだに思う気色なくて供奉したりしこそ中々見物にて侍りしか」となっており、「なにがしの中将」とは誰なんだろうと疑問に思って『五代帝王物語』を調べた人は、後深草院二条の祖父で後嵯峨院近臣の四条隆親が、16歳の嫡子隆顕を絢爛豪華に装いたてて、その権勢と富貴を誇示している様子を見出すような仕組みになっているのである。

 また、「先に聞えつる公基の大臣にぞおはせしやらん(前にお話しした公基の大臣でいらっしゃったか)」という不明瞭な書き方が気になって顕定と近衛大将の地位を争った人物の名前を調べた人は、それが西園寺公基ではなく、「三条」公親(1222〜1292.71歳)であることを見出すような仕組みになっているのである。

 この「三条」というのはそれ自体では何の意味もない記号であるが、『増鏡』巻11「さしぐし」で後深草院二条が三条という名前で登場する場面を読んで、「三条」が『増鏡』と『とはずがたり』の作者が行っている言葉遊びの最重要キーワードではないかと気づいた者には、これも何かのヒントなんだろうなと思わせるのである。

 結局、この高野御幸の場面で『増鏡』の作者が、いくつもヒントを出して読者を考えさせるように仕組んだ上で、読者に本当に気づいてほしいことは、『五代帝王物語』・『とはずがたり』・『増鏡』という「おたがいに相談することはなかっただろう」と思わせるような模様も色合いも異なる三つの作品を、時には銀(しろがね)・黄金(こがね)の飾りのように唐や日本の古典を華麗に引用し、時には「こういう表現もあるのだなあと珍しく、つい驚いてしまうほど」の不思議な技巧を用いて「二重(ふたえ)・三重(みえ)」に描き分け、「どんな(霊妙な力を持つ)秋の女神竜田姫でも、これほど美しい衣を織り出すのは困難であろうと見えたほどに」美しい世界を創り出したこの私は、何て素晴らしい才能の持ち主なんでしょう、私こそ言葉の世界の竜田姫なんですよ、ということなのではないかと私は思うのである。





(参考)

 『五代帝王物語』に描かれた高野御幸の様子は次のとおり。(『群書類従第三輯帝王部』巻第三十七による。ただし読みやすくするため、表記を若干変えている。)

 又正嘉元年三月廿日、高野へ御幸あり。後鳥羽院の御代ありける後、久しくなりつれば、人々の出立ち、心も詞も及ばず。高野までまいる人は皆旅の粧にて有りしに、京いで計り供奉の人々は、関白以下よのつねの御幸供奉の姿にて打まじりたれば、殊にめづらしくみえ侍りき。

 上下の北面に至るまで、錦の狩衣を着するうへは、其の外の人々の装束思ひやるべし。或は金のたてに唐錦をはつりてをりたるも有りけるとかや。五色のしりがひ紫すそごの鞦(しりがひ)などもかけたり。別当隆行の下部はみな虎の皮をぞきせて侍りし。

 宰相中将隆顕卿、殊にきらきらしく出立て、行粧おびたゞしかりしに、父の大納言隆親卿は善勝寺の出納四五人ばかり雑色につくりたてて、白張きせて、白木の柄長ひさごもたせて、世にははれのあるとだに思う気色なくて供奉したりしこそ中々見物にて侍りしか。

 随身の揚馬は例の事にて侍るに、園少将基顕、扇を折りて背にさして、くせ物に乗りて揚げくるひたりし、まことの堪能とみえて面白く侍りき。検非違使の随兵までも、いづれもぞをろかなりと見えぬ。

 前陣をば京の御所にて御車の前をわたして御覧ぜらる。後陣は鳥羽殿にてぞわたされし。御京出は鳥羽殿へ入らせおはしまして、これより高野までとをる人々ばかりまいれり。毎日の御装束行粧書きつくすべくもなき事どもなり。

 さて風雨の難なくまいらせおはしまして帰り入せおはしませば、また御迎にまいりて、御京入もたゞ同じさまなる見物なり。

 対馬守仲朝入道がかたり侍りしは、後鳥羽院の御幸によろづ事の外に超過して侍るよし申しき。是等はみな年号も前後したれども、申すついでに書き付け侍り。
 



※『増鏡』の高野御幸の場面との関係で、『徒然草』第128段に怪しい記述があることについては以前に「メモ」に少し書いてみた。(→こちら。9月2日の項。)



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