更新12.12/8 up10.9/7
![]()
| 原文 春過ぎ夏たけて、年去り年来たれば、康元元年にもなりにけり。太政大臣(おほきおとど)の第二の御むすめ、御参(まゐ)り給ふ。女院(にようゐん)の御はらからなれば、過(す)ぐし給へる程なれど、かかるためしはあまた侍(はべ)るべし。十二月十七日豊(とよ)のあかりの頃なれば、内(うち)わたり花やかなるに、いとどうち添へて今めかしうめでたく、その日御消息(せうそこ)を聞え給ふ。 夕暮をまつぞ久しきちとせまで変らぬ色の今日のためしを 関白(くわんぱく)書かせ給ひけり。紅(くれなゐ)の匂ひの箔(はく)もなき、八重(やへ)に重ねたるを、結びて包まれたり。 時なりぬとて人々まう上(のぼ)り集まる。女御の君、裏濃き蘇芳(すはう)七、濃き一重(ひとへ)、蘇芳の表着(うはぎ)、赤色の唐衣(からぎぬ)、濃き袴(はかま)たてまつれり。准后(じゆごう)添ひて参り給ふ。みな紅の八(やつ)、萌黄(もえぎ)の表着、赤色の唐衣着給ふ。 出車(いだしぐるま)十両、みな二人づつ乗るべし。一の車、左に一条殿大きおとどのむすめ、右に二条殿公俊の大納言女(むすめ)、二の左、按察(あぜち)の君准后のいもうと、右に中納言実任のむすめ、三の左に、民部卿殿(みんぶきやうどの)、右別当殿(べつたうどの)、その次々くだくだしければとどめつ。御童(わらは)、下仕(しもづか)へ、御はした、御雑仕(ざふし)、御ひすましなどいふものまで、かたちよきをえりととのへられたる、いみじう見所(みどころ)あるべし。 御せうとの殿ばら、右大臣公相(きんすけ)、内大臣公基(きんもと)参り給ふ。限りなくよそほしげなり。院の御子にさへし奉らせ給へれば、いよいよいつかれ給ふさま、いはんかたなし。待賢門院(たいけんもんゐん)の、白河の院の御子とて、鳥羽院に参り給へりしためしにやとぞ、心あてには覚え侍りし。 御門(みかど)のひとつ御腹の姫宮、このごろ皇后宮とて、その御方の内侍(ないし)ぞ御使ひに参る。まうのぼり給ふ程も、女御(にようご)はいとはづかしく、似げなき事に思(おぼ)いたれば、とみにえ動かれ給はぬを、人々そそのかし申し給ふ。御太刀(たち)一条殿、御几帳(みきちやう)按察殿(あぜちどの)、御火(みひ)とり中納言持たれたりけり。 上(うへ)は十四になり給ふに、女御は廿五にぞおはしける。御門きびはなる御程を、中々(なかなか)あなづらはしきかたに思ひなし聞え給ひぬべかりつるに、いとざれて、つつましげならず聞えかかり給ふを、准后(じゆごう)はうつくしと見奉らせ給ふ。 御ふすまは紅(くれなゐ)うち八つ四方(よはう)なるに、上(かみ)にうはざしの組あり。糸の色などきよらにめでたし。例の事なれば、准后奉り給ふ。太政大臣(おほきおとど)も、三日が程はさぶらひ給ふ。上達部(かんだちめ)勧盃(けんぱい)あり。 |
| 井上宗雄氏による現代語訳 |
私の立場からの補足 | |
春が過ぎ、夏も深まり、年が去って新しい年がやって来ると、康元元年(1256)ともなった。太政大臣実氏公の二番目の御娘(公子)が女御として入内(じゅだい)なさる。女院(大宮院)の御妹なので、ふけた御年配だが、こういう例はたくさんあることであろう。十二月十七日豊明節会(とよのあかりのせちえ)のころなので、宮中は花やかであるところに、(女御入内が)加わっていっそう花々しく結構な有様で、その日、天皇から女御へ御たよりを差出しなさった。
このお手紙は関白兼平公がお書きになられた。下方をうすくぼかした紅色の薄様の紙で、金や銀の箔も押してはいず、それを幾重にも重ねたのを結び、別の紙で包んであった。 |
||
| 入内の時刻が来たというので、人々が宮中へ参集する。女御の君は、裏の濃い蘇芳色の袿(うちぎ)を七枚重ね、濃い紅色のひとえ、蘇芳色の表着(うわぎ)、赤色の唐衣(からぎぬ)、濃い紅色の袴をお召しになった。准后(母貞子)がつきそって参内なさる。裏表紅の袿を八枚重ね、萌黄色の表着、赤色の唐衣をお召しになる。 | ||
| 女房の出(いだ)し衣(ぎぬ)をした車十両、みな二人ずつ乗っているようだ。第一の車には、左側に一条殿(実氏公女)、右側に二条殿(公俊大納言女)、第二の車の左側に按察(あぜち)の君(准后貞子の妹)、右側に中納言の君(実任女)、第三の車、左側に民部卿殿、右側に別当殿というわけだが、以下はわずらわしいから省略する。召使いの童女、雑役に従事する下級女房・御はした・御雑仕・御ひすましなどに至るまで、容姿の美しい者を選んでお揃えになったのは、たいへん見ばえのあることであろう。 |
||
| 御兄の殿方、右大臣公相(きんすけ)公、内大臣公基(きんもと)公が参内なさる。このうえなく美々しい様子である。この女御は後嵯峨院が御猶子にまでなし申しあげていらっしゃるので、いよいよだいじに育てられなさる様子は、いいようもないほどである。待賢門院が白河院の御猶子となって、鳥羽天皇の女御として入内なさった先例によったのであろうか、と当て推量にはそう思ったのであった。 | ||
| 後嵯峨院同母妹の姫宮(曦子内親王)はこのごろ皇后宮と申すが、その御方にお仕えしている内侍が天皇のお使いとして(女御のもとに)参る。いよいよ参内なさるときも、女御はたいそう恥かしく、(天皇と年齢が違って)似つかわしくないことに思われるので、すぐはお動きになれないのを、側の人々が誘(いざな)い申し上げなさる。御太刀は一条殿、御几帳(きちょう)は按察殿、御火取は中納言殿が持たれた。 | ||
| 天皇は十四になられるのに、女御は二十五でいらっしゃる。天皇(後深草)が幼少の御年ごろなのを、(女御が、まだ御子供ではないかと)軽くお思い申しなされそうであるのに、かえって天皇が、(年ごろよりも)たいそうあだめいて、恥かしそうでもなくお話しかけなさるのを、准后はかわいらしいとお見上げなさる。 | ||
| 御夜具はよくつやを出した紅の絹の八尺四方のものだが、上端には組み紐でさし縫いの飾りがあり、糸の色など華麗でみごとである。恒例によって准后貞子が夜具をお掛け申される。太政大臣実氏公も三日間は宮中に伺候なさる。公卿たちに御酒を下さる。 |
| 女御入内についての『五代帝王物語』の記述 西園寺公子(東二条院)の入内は『五代帝王物語』にも次のように描かれている。
『増鏡』では、「女院(大宮院)の御妹なので、ふけた御年配だ」「女御はたいそう恥かしく、(天皇と年齢が違って)似つかわしくないことに思われる」と年の差を強調し、最後に「天皇は十四になられるのに、女御は二十五でいらっしゃる」と具体的な年齢をあげて駄目押しする点で、作者の東二条院に対する相当の悪意が感じられるのであるが、『五代帝王物語』では「御年はるかの御姉にてぞおはします」とあるだけである。 まあ、分量的には大したことはないのであるが、「御年はるかの御姉にてぞおはします」というのはかなりきつい表現のような感じがするし、叔母で入内した例を「神武天皇の后蹈鞴五十鈴姫」にまで溯って延々と挙げることは、表面的には「代々の佳例」ということで納得できるものの、どこか微かな悪意を感じないでもないのである。 ところで、ここで興味深いのは、公子がもともと9歳年上の「円明寺殿」(一条実経.1223〜1284.62歳.一条家の祖)と婚約していて婚儀の日程まで決まっていたのに、後嵯峨院の意向で破棄させられ、結局11歳も年下の後深草天皇に入内した点である。 一条実経は九条道家(1193〜1252.60歳)の四男で、道家から大変気に入られていた人物である。1246年、道家は周囲の反対を強引に押し切って関白の地位を次男の良実(1216〜1270.55歳.二条家の祖)から奪い、実経に譲らせたのであるが、この年、名越光時の乱に将軍九条頼経が連座して京都に送還され、道家も幕府に嫌疑をかけられて引退を余儀なくされ、さらに翌1247年には実経も関白を解任されることとなっている。 西園寺家は北条氏に内通したとして道家から義絶された良実を保護する立場を取っていたのであるが、おそらく九条家一門の混乱の中で公子と一条実経の婚約も宙に浮き、結局公子は厳しい政争のあおりを受けて婚期を逃し、25歳という当時としては極めて遅い年齢での結婚を余儀なくされたのではないかと思われる。 このように公子は苛烈な政争に巻き込まれて相当な苦労をしているであろうこと、また男子に恵まれず肩身の狭い思いをしたであろうことなどを考えると、『とはずがたり』に描かれた東二条院は、後深草院二条という26歳も年下の特異な性格の人物が造型した極めて歪んだ像であって、実際の東二条院は、少なくとも後深草院二条よりは遙かにまっとうな人物だったような感じがするのである。 ※公子については「遊義門院の母、東二条院」において多少論じ、また『徒然草』第222段に即して検討した。 |
![]()