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 『増鏡』巻7「北野の雪」 公宗の思い




原文


 この入道殿の御弟(おとと)に、そのころ右大臣実雄(さねを)と聞ゆる、姫君あまた持ち給へる中に、すぐれたるをらうたきものに思(おぼ)しかしづく。今上(きんぢやう)の女御代(にようごだい)に出(い)で給ふべきを、やがてそのついで、文応元年入内(じゆだい)あるべく思(おぼ)しおきてたり。院にも御気色(みけしき)たまはり給ふ。入道殿(にふだうどの)の御孫(むまご)の姫君も参り給ふべき聞えはあれど、さしもやはとおしたち給ふ。いとたけき御心なるべし。

 この姫君の御兄(せうと)あまたものし給ふ中のこのかみにて、中納言公宗と聞ゆる、いかなる御心かありけん、下(した)たくけぶりにくゆりわび給ふぞ、いとほしかりける。さるは、いとあるまじきことと思ひはなつにしも、したがはぬ心の苦しさ、おきふし、葦のねなきがちにて、御いそぎの近づくにつけても、我(われ)かの気色(けしき)にてのみほれ過ぐし給ふを、大臣(おとど)は又いかさまにかと苦しう思(おぼ)す。

 初(はつ)秋風けしきだちて、艶(えん)ある夕暮に、大臣(おとど)渡り給ひて見給へば、姫君、薄色に女郎花(をみなへし)などひき重ねて、几帳(きちやう)に少しはづれてゐ給へるさまかたち、常よりもいふよしなくあてに匂(にほ)ひみちて、らうたく見え給ふ。御髪(ぐし)いとこちたく、五重(いつへ)の扇(あふぎ)とかやを広げたらんさまして、少し色なる方(かた)にぞ見え給へど、筋(すぢ)こまやかに額(ひたひ)より裾(すそ)までまよふすぢなく美し。ただ人にはげに惜しかりぬべき人がらにぞおはする。

 几帳おしやりて、わざとなく拍子(ひやうし)うちならして、御ことひかせ奉り給ふ。折しも中納言参り給へり。「こち」とのたまへば、うちかしこまりて、御簾(みす)の内にさぶらひ給ふさまかたち、この君しもぞ又いとめでたく、あくまでしめやかに心の底ゆかしう、そぞろに心づかひせらるるやうにて、こまやかになまめかしう、すみたるさまして、あてに美し。いとどもてしづめて、騒ぐ御胸を念じつつ、用意を加へ給へり。

 笛少し吹きならし給へば、雲ゐにすみのぼりて、いとおもしろし。御ことの音(ね)ほのかにらうたげなる、かきあはせの程、なかなか聞きもとめられず、涙うきぬべきを、つれなくもてなし給ふ。撫子(なでしこ)の露もさながらきらめきたる小袿(こうちき)に、御髪(ぐし)はこぼれかかりて、少し傾(かたぶ)きかかり給へるかたはら目、まめやかに光を放つとはかかるをや、と見え給ふ。よろしきをだに、人の親はいかがは見なす。ましてかくたぐひなき御有様どもなめれば、よにしらぬ心の闇にまどひ給ふも、ことわりなるべし。



井上宗雄氏による現代語訳

私の立場からの補足

 この入道実氏(さねうじ)公の御弟に、そのころ右大臣実雄(さねお)と申す方がいて、姫君をたくさんお持ちであった中に、格別に(容姿の)すぐれた方(佶子)をかわいいものとして、たいせつに育てられた。今上(亀山)天皇の(大嘗会に参仕する)女御代(にょうごだい)としておいでになることになっていたのを、そのまま、それをきっかけにして文応元年(1260)入内するように御心づもりになった。後嵯峨院からも、お許しの御内意を賜っていた。入道実氏公の姫君(嬉子)も入内なさるはずだといううわさはあったが、そんなことはあるまい、とあえて決行された。たいへん気の強い御心というものだろう。

洞院実雄(1219〜1273.55歳)は西園寺公経(1171〜1244.74歳)が49歳の時の子で、西園寺実氏(1194〜1269.76歳)よりも25歳も年下の異母弟。
佶子(京極院.1245〜1272.28歳)は後宇多天皇(1267〜1324.58歳)の母。『とはずがたり』に「東の御方」として登場する伏見天皇(1265〜1317.53歳)の母玄輝門院(1246〜1329.84歳)の1歳上の異母姉である。
亀山天皇(1249〜1305.57歳)についてはこちら。(水戸部正男氏『歴代天皇紀』)

禧子(今出川院.1253〜1318.66歳)は西園寺公相(1223〜1267.45歳)の娘で実兼(1249〜1322.74歳)の4歳下の同母妹。

洞院公宗(1241〜1263.23歳)は母が法印公審の娘なので京極院は同母妹。なお若干23歳で亡くなった公宗に代わり洞院家を継承した公守(1249〜1317.69歳)も同母。
 この姫君(佶子)の御兄たちは多くいらっしゃった、その中の、一番上の兄君で、中納言公宗(きんむね)と申す方は、どういう御心があったものか、(上に燃え上らず)下でいぶっている火のように、ひそかに胸の中で恋いこがれて悩んでおられるのは、お気の毒であった。そういう(兄が妹を恋うなどという)ことは、まことにあるまじきことと思い切ろうとしても思い切れぬ心の苦しさを、起きても寝てもただ泣いていることが多く、妹君の入内の御支度が近づくにつけても、我を失ったような呆然とした様子で過されるのを、父実雄公は、これはまたどうしたことだ、と御心配になる。

 涼しい初秋風が吹き始める様子が現われてきて、いかにも優美な趣のある夕暮れ、実雄公がいらっしゃって御覧になると、姫君(佶子)が、薄色の表着(うわぎ)におみなえし襲(かさね)の袿(うちき)をひき重ねて、几帳からすこし外れてすわっていらっしゃる御容姿は、いつもよりなんともいいようなく上品で、美しさが溢れるほどで、かわいらしくお見えなさる。御髪もたいへん多く、五重(いつえ)の御扇とかいうものを広げたような様子で、すこし赤味を帯びておられるように見えなさるが、毛筋が細かく、額から毛の先までくせもなく素直で美しい。普通の人の妻には、ほんとうにもったいないような人柄でいらっしゃる。

西園寺家の栄華を詳細に描く『増鏡』の作者は、「入道殿の御孫の姫君も参り給ふべき聞えはあれど、さしもやはとおしたち給ふ。いとたけき御心なるべし」と、洞院家に対しては極めて冷淡で棘のある書き方をしている。
 この公宗の同母妹への恋云々も洞院家にとっては極めて不名誉な話であり、この部分だけでも『増鏡』の作者が洞院公賢(公守の孫.1291〜1360.70歳)だとの田中隆裕氏の説(今谷明氏『増鏡』の著者論」も支持。)には賛成できない。この話は「死屍に鞭打つ」趣があるばかりか、これだけ読まされたのでは京極院の生んだ子の父は誰なんだ、という疑惑さえ生みかねないとんでもない話であり、こんなものを洞院家の人が書くはずがないと私は考える。
 なお、これは井上宗雄氏が「解説」で「王朝系の優雅な文体で、虚構とも思えないように具体的に描かれているが、何を材としたのであろうか」と書かれているように、『増鏡』にしか出てこない話である。
 実雄公は几帳(きちょう)をわきに押しやって、わざとらしくなく拍子をとって、姫君に御箏(こと)を弾かせ申しなさる。ちょうどそのとき、中納言(公宗)が参られる。「こちらへ」と実雄公がおっしゃると、かしこまって御簾(みす)の中へおすわりになるその御容姿は、この方もまたたいそうりっぱで、どこまでもしっとり落着き、お心のうちを知りたくなるくらいで、この方の前ではだれでもがなんとなく気がおけてしまう、という御様子で、洗練されて優雅に、澄ました感じで、上品に美しい。公宗中納言はいちだんと心を静め騒ぐ胸を抑えて(気持が外に出ないように)ことに用心をなさる。

 笛をすこし吹き鳴らされると、その音が空高く澄み上ってたいへん趣がある。姫君の弾く御箏の音の、ほんのりとかわいらしいのが、これと合奏されたとき、(感動して)かえって一々の音を聞きとることもできず、涙がにじんで来そうなのを、こらえて平気なように装っておられる。なでしこの花に露がそのままきらめいている模様の小袿(こうちき)に、御髪がこぼれかかって、すこし前かがみになっておられるお姿を横から見たところ、ほんとうに、光を放つ、というのはこういうことをいうのだろうか、とお見えになった。世間なみの娘であっても、人の親はどのように見てしまうだろうか(よいほうに見がちである)。まして、このように類のないほどの御容姿なので実雄公がたいへん深い親心の闇に迷われてしまうのも、ごもっともなことであろう。





「御髪いとこちたく、五重の扇とかやを広げたらんさまして、少し色なる方にぞ見え給へど、筋こまやかに額より裾までまよふすぢなく美し」、「撫子の露もさながらきらめきたる小袿に、御髪はこぼれかかりて、少し傾きかかり給へるかたはら目、まめやかに光を放つとはかかるをや、と見え給ふ」といった表現は、やはり女性ならではの感覚の反映のような感じがする。この点についてはこちら。(「とにかく『増鏡』を読んでみた。」)



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