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 『増鏡』巻8「あすか川」 後嵯峨法皇病悩、崩御




原文(『増鏡全訳注』(中).p159以下)


 その頃ほひより、法皇時々御悩みあり。世の大事なれば、御修法(しゆほふ)どもいかめしく始まる。何くれと騒ぎあひたれど、怠(おこた)らせ給はで年も返りぬ。睦月(むつき)の初めも、院の内(うち)かいしめりて、いみじく物思ひ嘆きあへり。

 十七日亀山殿へ御幸(ごかう)なる。これや限りと上下心細し。法皇も御輿(こし)なり。両女院は例の一つ御車に奉る。しりに御匣殿(みくしげどの)さぶらひ給ふ。道にて参るべき御煎(せむ)じ物を、種成(たねなり)・師成(もろなり)といふ医師(くすし)ども、御前(まへ)にてしたためて、銀(しろがね)の水瓶(みづがめ)に入れて、隆良(たかよし)の中納言承りて、北面(ほくめん)の信友(のぶとも)といふに持たせたりけるを、内野の程にて参らせんとして召したるに、二の瓶(かめ)に露程(つゆほど)もなし。いと珍らかなるわざなり。さ程の大事の物を悪(あ)しく持ちて、うちこぼすやうはいかでかあらん。法皇もいとど御臆病(おくびやう)そひて心細く思(おぼ)されけり。

 新院は大井河の方(かた)におはしまして、ひまなく男・女房上下となく、「今の程いかにいかに」と聞えさせ給ふ御使ひの、行きかへる程を、なほいぶせがらせ給ふに、睦月(むつき)もたちぬ。いかさまにおはしますべきにか、と、たれもたれも思(おぼ)しまどふこと限りなし。

 かねてよりかやうのためと思(おぼ)しおきてける寿量院(じゆりやうゐん)へ、二月七日渡り給ふ。ここへはおぼろげの人は参らず。南松院の僧正、浄金剛院(じやうこんがうゐん)の長老覚道上人(かくだうしやうにん)などのみ、御前にて法(のり)の道ならではのたまふ事もなし。六波羅(ろくはら)北南、御とぶらひに参れり。西園寺大納言実兼(さねかぬ)、例の奏し給ふ。

 十一日行幸あり。中(なか)一日渡らせ給へば、泣く泣くよろづの事を聞えおかせ給ふ。新院も御対面あり。御門(みかど)は御本性(ほんじやう)いと花やかにかしこく、御才(ざえ)なども昔に恥ぢず、何事もととのほりてめでたくおはします。世を治めさせ給はん事も、うしろめたからず思(おぼ)せば、聞え給ふ筋(すぢ)ことなるべし。

 十七日の朝(あした)より御気色(けしき)変るとて、善知識(ぜんちしき)召さる。経海(けいかい)僧正・往生院の聖(ひじり)など参りてゆゆしきことども聞え知らすべし。つひにその日の酉(とり)の時に御年五十三にてかくれさせ給ひぬ。後嵯峨の院とぞ申すめる。今年は文永九年なり。院の内くれふたがりて闇に惑ふ心地(ここち)すべし。

 十八日に薬草院(やくさうゐん)に送り奉り給ふ。仁和寺(にんわじ)の御室(おむろ)・円満院・聖護院(しやうごゐん)・菩提院・青蓮院(しやうれんゐん)、みな御供(とも)仕(つか)まつらせ給ふ。内より頭中将、御使ひに参る。卅(さんじふ)年が程世をしたためさせ給へるに、少しの誤りなく、思(おぼ)すままにて、新院・御門(みかど)・春宮(とうぐう)動きなく、又外(ほか)ざまに分るべきこともなければ、思(おぼ)しおくべき一ふしもなし。なき御跡まで、人のなびき仕(つか)うまつれる様、来(き)し方(かた)もためしなき程なり。



井上宗雄氏による現代語訳

私の立場からの補足

 そのころから後嵯峨法皇は時々お患いになった。天下の大事なので、平癒の御修法(みしゅほう)などが厳重に開始された。なにやかやと騒ぎあったが、おなおりにならないで年もあらたまった。その文永九年(一二七二)正月の初めも、院の中はひっそりと沈んで、みなひじょうに心配して嘆きあった。

『増鏡』に描かれた後嵯峨天皇(1220〜72.53歳)践祚のときの様子、および後嵯峨天皇と村上源氏並びに四条家との関係についてはこちら


大宮院(1225〜92.68歳)は、『増鏡』巻10「老の波」において、大変幸福だった人として描かれているが、その場面はこちら
東二条院(1232〜1304.73歳)についてはこちら。(関口力氏『百二十五代の天皇と皇后』)

このあたりは『とはずがたり』を大幅に「引用」しているが(原文はこちら。)、『とはずがたり』では四条隆良(?〜1296)の役を中御門経任(1233〜1297.65歳)が行っていて、極めて奇妙である。この点についての私の考え方はこちら
 十七日亀山殿へ御幸される。これが最後の御幸であろうと、上下すべての人が心細く感じる。法皇も御輿に乗られる。大宮院・東二条院はいつものように一つ御車に召される。車の後ろに御匣殿(みくしげどの)が陪乗(ばいじょう)される。道の途中で召し上がるべき煎じ薬を、和気種成(わけのたねなり)・同師成(もろなり)という医師(くすし)らが、御前で調合して、銀の水瓶(みずがめ)に入れて、隆良(たかよし)の中納言が(薬を奉る役を)承って、北面の武士の信友という者に持たせてあったのを、内野の辺で差上げようとして瓶(かめ)を召したところ、二つの瓶にお薬は一滴もない。ほんとうに不可思議なことである。それほど、大事なものを下手に持ってこぼすなどということはどうしてあろう。法皇も、いちだんと気弱なお気持が加わって心細く思われたのであった。

 後深草院は、大井河に面した御殿におられて、絶えまなく殿上人や女房、だれかれとなく遣わして、「今の御容態はいかがか」とおたずね申しなさる、そのお使いが帰って来る間をも、なお気がかりにしておられる、そんなうちに正月も過ぎた。どうなられるであろうとだれもが思い嘆かれることは限りない。前もって、こういう(重態の)時のためと予定されていた寿量院へ、二月七日お移りになる。ここへはなみなみの人は参らない。南松院の実伊僧正、浄金剛院長老覚道上人などだけが参上し、御前で、ただ仏の教えのことより外は仰せがない。

 六波羅探題の北南がお見舞に参る。西園寺大納言実兼が、関東申次として例のとおり奏上さる。十一日亀山天皇の行幸があった。中一日、つまり足かけ三日御滞在されるので、泣く泣く万端のことを申し置きなさる。後深草院も御対面がある。亀山天皇は御性質がたいそう明朗賢明で、御学才なども昔の天子に恥じず、何事も行届いてりっぱでいらっしゃる。天下をお治めになるのも、法皇は心配なく思われるので、申しあげる方面のことも、(他の方々ヘの遺言とは)違っているのであろう。

『とはずがたり』には、2月9日にそろって御見舞いに参上した六波羅探題二人のうち、南方の北条時輔(執権時宗の異母兄.1248〜72.25歳)が、わずか6日後の15日、時宗の命を受けた北方の北条義宗(1253〜77.25歳)に討たれたこと(二月騒動)が簡潔に描かれている。こちら

「新院〈後深草院〉も御対面あり。」の直後に「御門〈亀山院〉は御本性いと花やかにかしこく、御才なども昔に恥ぢず、何事もととのほりてめでたくおはします。世を治めさせ給はん事も、うしろめたからず思ぼ)せば、聞え給ふ筋ことなるべし。」と書かれていることは、後の持明院統・大覚寺統の厳しい対立を考えると、後嵯峨院の遺詔に関する部分などと並んで、『増鏡』の作者の立場を示すものとして極めて重要な箇所である。こうした記述に基づいて、『増鏡』の作者は南朝方の人物だと考える学者もいる(中村直勝氏「増鏡の史実性について」)。

性助法親王(1247〜82.36歳)は『とはずがたり』の「有明の月」に比定されている人物。
 十七日の朝から御容態が変ったというので、高僧を召される。経海(けいかい)僧正・住生院の聖(ひじり)などが参上して、仏の尊い教えなど申しあげるようである。とうとうその日の酉の時(午後五−七時の間)に、御年五十三でお亡くなりになった。おくり名は後嵯峨院と申すようだ。今年は文永九年である。仙洞(せんとう)御所は一面まっ暗になって、みな闇の中に迷うような気持がするであろう。

 十八日に薬草院に御葬送申しあげなさる。皇子の仁和寺の御室(おむろ)性助(しょうじょ)法親王・円満院円助法親王・聖護院覚助法親王・菩提院最助法親王・青蓮院慈助法親王、みなお供申された。

 宮中から頭中将実冬がお使いに参る。後嵯峨院は約三十年間、天下の政治をお執りになったが、すこしの御間違いもなく、御意志のとおりで、新院(後深草)・天皇(亀山)・春宮(後の後宇多)と揺るぎなく、みな院の御子孫で外の系統に分かれるというようなこともないので、御心を残すべきことは一点もない。崩御の後までも人々がいっせいに従いお仕え申す有様は、過去にも前例のないほどである。



後嵯峨院の治世についてはこちら。(水戸部正男氏『歴代天皇紀』)




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