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 『増鏡』巻8「あすか川」 東二条院のお産



原文


 かやうのことにのみ心やりて明かし暮らさせ給ふ程に、又の年の秋になりぬ。

 東二条院、日頃ただにもおはしまさざりつる、その御気色(みけしき)ありとて、世の中騒ぐ。院の内(うち)にてせさせ給へば、いよいよ人参り集(つど)ふ。大法(だいほふ)・秘法のこりなく行はる。七仏薬師(しつぶつやくし)・五壇(ごだん)の御修法(みしゆほふ)・普賢(ふげん)延命・金剛童子(こんがうどうし)・如法愛染(によほふあいぜん)など、すべて数知らず。

 御験者(げんじや)には常住院の僧正(そうじやう)参り給ふ。八月廿日宵(よひ)の事なり。すでにかと見えさせ給ひつつも、二日三日になりぬれば、ある限り物覚ゆる人もなし。いと苦しげにし給へば、仁和寺(にんわじ)の御室(おむろ)の、如法愛染の大阿闍梨(あざり)にてさぶらひ給ふを、御枕上(まくらがみ)に近く入(い)れ奉らせ給ひて、「いと弱う見え侍(はべ)るはいかなるべきにか」と院も添ひおはしまして、あつかひ聞え給ふさま、おろかならねば、あはれと見奉り給ひて、「さりともけしうはおはしまさじ。定業亦能転(ぢやうごふやくのうてん)は菩薩の誓ひなり。今更妄語(まうご)あらじ」とて、御心を致して念じ給ふに、験者(げんざ)の僧正も「一持(ぢ)秘密」とて数珠(ずず)おしもみたる程、げにたのもしく聞ゆ。

 御修法の物ども運び出(い)で、女房のきぬなど、こちたきまで押し出(いだ)せば、奉行(ぶぎやう)とりて殿上人(てんじやうびと)・北面(ほくめん)の上下、あかれあかれに分(わか)ち遣(つかは)す。

 そこらの上達部(かんだちめ)は階(はし)の間(ま)の左右につきて皇子誕生を待つ気色(けしき)なり。陰陽師(おんやうじ)・巫女(かんなぎ)たちこみて千度(ど)の御はらへつとむ。御随身(みずいじん)・北面の下臈(げらふ)などは、神馬(じんめ)をぞ引くめる。院、拝し給ひて廿一社に奉らせ給ふ。

 すべて上下内外ののしり満ちたるに、御気色(けしき)ただ弱らせ給へば、今一(ひと)しほ心まどひして、さと時雨(しぐれ)渡る袖(そで)の上ども、いとゆゆし。院もかきくらし悲しく思(おぼ)されて、御心の内には石清水(いはしみず)の方(かた)を念じ給ひつつ、御手をとらへて泣き給ふに、さぶらふ限りの人、皆え心強(づよ)からず。

 いみじき願(ぐわん)どもをたてさせ給ふしるしにや、七仏(しちぶつ)の阿闍梨(あざり)参りて、「見者歓喜(けんじやくわんぎ)」とうちあげたる程に、からうじて生(む)まれ給ひぬ。

 何(なに)といふことも聞えぬは姫宮なりけり、といと口惜(くちを)しけれど、むげになき人と見え給へるに、平(たひ)らかにおはするを喜びにて、いかがはせんと思(おぼ)し慰む。人々の禄など常の如し。法皇も、なかなかいたはしく、やんごとなき事に思(おぼ)していみじくもてはやし奉らせ給ふ。いでやと口惜(くちを)しく思へる人々多かり。

 かかるにしも、実雄(さねを)の大臣(おとど)の御宿世(しゆくせ)あらはれて、片つ方(かた)には心おちゐ給ふも、世の習ひなれば、ことわりなるべし。五夜・七夜など、ことに花やかなることどもにて過もて行く。



井上宗雄氏による現代語訳

私の立場からの補足

 このようなことにばかり心を慰めて、(楽しく)日をお過ごしになるうちに、翌年になった。

 東二条院はかねてから御懐妊でおられたが、お産の御様子があるというので、世間は大騒ぎする。院の御所でお産なさるというので、いっそう人々が参集する。密教の大事な修法(しゅほう)や真言の秘密の祈祷が残りなく行われる。七仏薬師法・五壇の御修法・普賢延命法・金剛童子法・如法愛染(にょほうあいぜん)法など数知らず行なわれる。




東二条院(1232〜1304.73歳)

遊義門院誕生は史実では1270年のことであるが、『とはずがたり』および『増鏡』では後嵯峨院崩御の前年、つまり1271年のこととされている。
  加持祈祷をなさる人としては常住院僧正良尊が参られる。それは八月二十日宵のことである。もうお生まれになるか、とお見えになりながら二・三日となったので、御所にいる方(かた)はみな、どうすべきかを知る人もいない。

常住院は三井寺の一院。良尊は九条良経(1169〜1206.38歳)の子。
 女院はたいそう苦しそうになさるので、仁和寺の性助法親王が、如法愛染法の修法の壇の主僧でいらっしゃったが、この方を女院の御枕もと近くにお入れ申して、後深草院も「たいへん弱ったようにみえますが、これはどうなるのでしょう」と、そばにいらっしゃっていろいろお世話なさる御様子が並一通りでないので、法親王もお気の毒にお見あげ申しなさって、「弱ってはおられるが、お命にかかわることはございますまい。前世から定まった報いも、仏に祈念することでよいほうに転ずることができる、というのは菩薩の誓約です。今さら偽りはありますまい」といって御心をこめて祈念されると、験者の僧正も、「一持秘密……」と唱えて数珠を押しもんでいる有様は、まことに頼もしくみえる。

「仁和寺の御室」性助法親王(1247〜1282.36歳)は後深草院の4歳下の異母弟で、『とはずがたり』の「有明の月」に比定されている人物。1270年の時点ではまだ24歳であるが、ずいぶん老成しているように描かれている感じがする。

後深草院(1243〜1304.62歳)についてはこちら。(水戸部正男氏『歴代天皇紀』)
 御修法の布施の物などをいろいろと運び出して、女房の衣(きぬ)などをぎょうさんなほどたくさん押し出すと、それを修法担当の役人が受けとって、殿上人や上北面・下北面の武士たちが手分けして取って、僧たちに分配してやる。

 多くの公卿は、(正面の)階隠(はしがく)しの間の左右に着座して、皇子誕生を待つ、といった様子である。陰陽師・巫女(みこ)がいっぱいたち込んで、千度の御祓いを勤める。御随身(みずいじん)や下北面の武士らは、諸社へ奉る馬を引いて行くようである。後深草院は御拝をなさってそれを二十一社ヘ奉納なさる。

 みな、上の人も下の人も、院中も院外も騒ぎたっているが、女院の御様子はただただ弱られて行くので、人々は今いっそう心も動揺して、さっと降りかかる袖の上の涙なども、(この際は)まことに縁起のよくないことだ。後深草院も涙にくれて悲しく思われ、御心中、石清水八幡宮のほうを御祈念なさっては女院の御手をとって泣きなさると、侍(じ)しているほどの人は、みな気強くこらえることができないで落涙する。

 非常な祈願などをお立てになった効験であろうか、七仏薬師法の修法をする阿闍梨(あじゃり)が参って、「……見者歓喜(けんじゃかんぎ)」と声をはり上げて唱えている間に、ようやくお生まれになった。

 皇子誕生ともなんとも申さぬのは、姫宮であるのだ、と思うとたいへん残念だが、(一時は)まったくお助かりにならぬ方(かた)と見えなさったのに、無事でいらっしゃるのを喜びとして、姫宮でも仕方ないと院は思い慰められる。人々への賜り物などは例のごとくである。

 後嵯峨法皇も、(皇女誕生ということで)かえって気の毒に感じ、いっぽうでは無事であったことをよかったと思われて、たいへんたいせつに扱いなさる。(皇女では)なんともはや残念だと思っている人々も多かった。

この姫宮が『とはずがたり』の終わり近くになって唐突に重要人物として登場してくる遊義門院(1270〜1307.38歳)である。二条の宿敵東二条院の子でありながら、『とはずがたり』で極めて好意的に描かれているのが不思議なのであるが、この女性についての私の一応の仮説はこちら

後嵯峨院(1220〜1272.53歳)
 このようなこと(皇女の誕生)につけても、実雄公の御果報も明らかになって、こちら側では安心なさるのも自然な人情であるから、もっともなことといってよいのだろう。五夜・七夜の産養(うぶやしない)など、格別に花やかなことがさまざまあって月日は過ぎて行く。



後深草院誕生の場面と遊義門院誕生の場面の比較


 『増鏡』でその誕生の時の様子が詳細に描かれているのは後深草院と遊義門院の父娘二人だけであること、そして普通に考えれば全く歴史的重要性がない遊義門院の誕生について、これだけ詳細に描いた理由についての私の考え方は別途述べた(「遊義門院の母 東二条院」)。

 私の考えでは、その理由は、

(1)遊義門院という人が特別な存在であることを暗示するための伏線のひとつ。

(2)東二条院に対する作者の個人的な悪意の現れ。(男子誕生を待望する後深草院や大勢の公卿、僧侶、陰陽師、巫女、武士たちが繰り広げる狂騒的な状況を盛り上げるだけ盛り上げておいて、最後に、ザンネンだけど女の子でした、とストンと落とすのは、作者の東二条院に対する〈ザマーミロ〉という気持ちが籠められている。)

ということなのであるが、ここでは(2)に関連して、後深草院誕生の場面(→原文はこちら。)と遊義門院誕生の場面を比較してみたい。

 後深草院の誕生は鎌倉幕府の強力な介入により即位できた後嵯峨天皇の政治的基盤を、他の皇統(順徳院の皇統)及びそれを支持する九条道家の勢力に対抗して格段に強化することになって、後嵯峨天皇と西園寺家の両者にとって極めて重要な意味をもったのであるが、遊義門院の誕生の時点では後深草院には既に5年前に煕仁親王(伏見天皇.1265〜1317.53歳)が誕生しており、後深草院自身にとって男子が生れるか否かは、それほど重要ではない。

 しかし煕仁親王は西園寺実氏(1194〜1269.76歳)の25歳下の異母弟洞院実雄(1219〜1273.55歳)の娘☆子(「東の御方」.玄輝門院.1246〜1329.84歳)所生であり、分家の洞院家に押され気味だった西園寺家としては、やはりどうしても男子を生んでほしい状況だったはずである。

 このように西園寺家にとっては共に極めて重要な局面において、大宮院は期待通り皇子を生み、他方娘の東二条院は期待に反して女子を生んでしまった、ということで、この二つの場面は内容面で対照的なのであるが、後深草院誕生の場面と遊義門院誕生の場面を比較してみると、この二つの場面は表現面においても極めて対照的で、作者に何らかの意図があると思わざるをえないのである。

 すなわち、後深草院誕生の場面には、

@「たとひ平らかにし給へりとも、女宮にておはしまさばと、まがまがしきあらましを思ふだに、胸つぶれ口惜し。」(たとい御安産であっても、皇女でいらっしゃったら、と不吉な予想を思うだけでも、胸がつまって口惜しいことである。)

A「御身の宿世みゆべき際ぞかし、と思せば」(実氏公は御自身の前世からの運の現われる機会であるとお思いになる)

B「まづ何にかと心さわぐに、御兄の大納言公相、『皇子誕生ぞや』といと高らかにの給ふ」(まず第一に、皇子か皇女か、と胸がどきどきしていると、中宮の御兄の大納言公相が、『皇子誕生です』とたいそう高らかにおっしゃる)

C「げにこの頃の響きに、女にておはしまさましかば、いかにしほしほと口惜しからまし。きらきらしうもしいで給へるかし。」(ほんとうに最近世の騒ぎとなったこの御産について、もし皇女の御誕生だったら、どんなに悄然として残念だったことであろう。期待にこたえて見事になさったことであった。)

D「大臣年たけ給ふまでも、『その折の嬉しうかたじけなかりしを思ひ出づれば、見奉るごとに涙ぐまるる』とぞ、後深草院をば常に申されける。」(父実氏公は年をとられて後までも、『その時のうれしく有難かったことを思い出すと、〈後深草天皇を〉お見上げ申すたびに涙ぐまれることだ』と後深草院のことをいつも申されたのであった。)

という表現が出てくるのであるが、遊義門院誕生の場面と重ね合わせてみると、これらはすべて東二条院、そして遊義門院に対する辛辣な皮肉のように思えてくるのである。

 即ち、「たとえ御安産でも皇女じゃしょうがないねえ。」「皇子誕生と高らかに言えないのは残念なことだねえ。」「大騒ぎだったのに皇女の誕生だったから〈しほしほと〉(悄然と)してしまったねえ。」「果報が明らかになったのは洞院家の実雄公の方だったねえ。」「遊義門院を見る度に、あの時皇子が誕生していればどれだけ嬉しく有り難かったことか、と思っている人がいるかもねえ。」、といった具合である。



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