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 『増鏡』巻8「あすか川」 大宮院・経任・公雄





原文(『増鏡全訳注』(中).p167以下)


 廿三日御初七日に大宮の院御ぐしおろす。その程いみじく悲しき事多かり。天の下お しなべてくろみ渡りぬ。よろづしめやかにあはれなる世の気色(けしき)に、心あるも心なきも、涙もよほさぬはなし。

 院・内の御嘆きさる事にて、朝夕むつましく仕(つか)うまつりし人々の、思ひしづみあへるさま、ことわりにも過ぎたり。その中に、経任(つねたふ)の中納言は人よりことに御覚えありき。年、若からねば、定めて頭(かしら)おろしなん、と皆(みな)人思へるに、なよよかななる狩衣(かりぎぬ)にて、御骨(こつ)の御壺(つぼ)持ち参らせて参れるを、思ひの外(ほか)にもと見る人思へり。

 権中納言公雄と聞ゆるは、皇后宮の御弟なり。早うより故院いみじくらうたがらせ給ひて、夜昼御傍(かたは)らさらず侍らひて、明け暮れ仕(つか)うまつらせ給ひしかば、限りある道にも後(おく)らかし給へることを、若き程に、やる方(かた)なく悲しと思ひ入り給へり。西の対(たい)の前なる紅梅の、いとうつくしきを折りて、具氏(ともうぢ)宰相中将、かの中納言に消息(せうそこ)聞ゆ。

梅の花春は春にもあらぬ世をいつと知りてか咲き匂ふらん

返し、

心あらばころもうき世の梅の花折り忘れずは匂はざらまし

「夜(よ)さり、対面に何事も聞えん」といへるを、この中将も故院の御いとほしみの人にて、同じ心なる友に覚えければ、いとあはれにて、悲しきことも語りあはせん、と日ぐらし待ちゐたるに、つひに見えず。あやしと思ふに、はやその夜、頭(かしら)おろしてけり。

 よはひも盛りに、今も皇后宮の御せうと、春宮の御伯父なれば、世おぼえ劣るべくもあらず。思ひなしも頼もしく、誇(ほこ)りかなるべき身にて、かく捨て果つる程、いみじくあはれなれば、皆人いとほしう悲しき事にいひあつかふめり。経任(つねたふ)の中納言にはこよなき心ばへにや。

 父大臣(おとど)も、院の御事を尽きせず嘆き給ふにうちそへて、いみじと思(おぼ)す。公宗(きんむね)中納言も、かひなき物思ひの積りにや、はかなくなり給ひぬ。又この中納言さへかく物し給ひぬるを、さまざまにつけて心細く思(おぼ)すに、いく程なく皇后宮さへ又うせ給ひぬ。いよいよ臥(ふ)し沈みてのみおはする程に、いと弱うなりまさり給ふ。春宮(とうぐう)の御代(みよ)をもえ待ち出(い)づまじきなめり、と、あはれに心細う思しつづけて、

はかなくもをふのうらなし君が代にならばと身をも頼みけるかな

嘆きにたへず、つひに失せ給ひにけり。物思ふには、げに命も尽くるわざなりけり。



井上宗雄氏による現代語訳

 二十三日御初七日の日、大宮院は剃髪(ていはつ)された。その間は、ひじょうに悲しいことが多かった。天下はみな黒い喪服になった。万事しんみりとして物哀れな世間の有様につけて、心ある者も心なき者も涙をもよおさぬ者はない。

 後深草院や亀山天皇の御嘆きはもちろんのこと、朝夕法皇に親しくお仕えしていた人々の、悲しみに沈んでいる様子は、常識をこえて激しいものであった。その中に、経任(つねとう)中納言は他の人々よりはことに御寵愛があった。年も若くないので、きっと出家するだろうとみな思っていると、平常どおりのしなやかな狩衣(かりぎぬ)を着て、御骨壺を捧持してまいったのを、意外なことだと見る人々は思った。

 権中納言公雄と申すのは皇后宮(佶子)の御兄弟である。はやくから後嵯峨院がたいへんかわいがりなさって、(公雄も)夜昼お側離れず祗候(しこう)して、朝夕お仕え申しなさったので、死出の旅にも自分をあとに残されたことを、若い(純情な)年ごろなので、慰めようもなく悲しいと深く思いこまれた。西の対(たい)の屋(や)の前にある紅梅で、たいそう美しく咲いているのを折って、具氏(ともうじ)の参議中将がその中納言公雄に便りを差上げた。

梅の花は、今年の、春は春でも(法皇がなくなって)春らしくもないこの嘆きの世を、どういう時だと思って、咲き匂っているのだろうか。

返し、

今は喪服を着てつらい時節なのだ。梅の花よ、そういう(法皇のなくなられた)時だと いうことを忘れずに、もし心があるならば咲き匂わずにいてほしいのに(しかし心なく も咲き匂ってしまっているよ)。

「夜、お目にかかったときに、何事も申しあげましょう」といってきたのを、具氏中将も後嵯峨院の御寵愛の人で、同じような気持の友人に思われたのでまことに感慨が深くて、悲しいことも語りあおうと一日じゅう待っていたのに、とうとう来なかった。不思議に思っていたところ、はやくもその夜剃髪していたのであった。

 年も盛りで、現に皇后宮(佶子)の御兄弟で、東宮の御伯父なので、世の信望も他の人に劣るはずもない。世間の思うところも頼もしく、(自分自身も)得意になってよい身で、こんなふうに世を捨ててしまう心のほどがたいへんあわれなので、みないたわしくも悲しいことにうわさするようである。経任の中納言よりは、このうえなくすぐれた心根であろうか。

 父大臣実雄(さねお)公も、法皇の御ことを限りなく嘆かれるのに加えて、息公雄の出家をじつにつらいことに思われた。息公宗の中納言も、甲斐のない物思いが積ったからか、(すでに)なくなられていた。またこの公雄の中納言までもがこんなふうに剃髪されたのを、(実雄公は)さまざまの事につけて心細く思われるのに、いくらもたたぬうちに皇后宮(佶子)までまたなくなられた。いよいよ臥し沈んでばかりおられる内に、たいそう弱くなって行かれた。東宮が皇位につく、新しい御代をも待つことができなそうだ、と悲しく心細く思い続けられて、(次の歌を詠まれた)

(「をふの浦」の梨がなるというように)君が代になったならば(後ろ見申そう)と、はかなくも、わが身を頼みにして来たことよ。

嘆きにたえきれず、とうとうなくなられた。物思いということによって、(世間でいうとおり)なるほど、寿命も尽きるものであった。



☆中御門経任(1233〜1297.65歳)が出家しないことを非難する『増鏡』作者の態度についての私の考え方はこちら

☆洞院実雄(1219〜1273.55歳)の娘佶子(京極院.1245〜1272.28歳)は後宇多院(1267〜1324.58歳)の母。巻7「北野の雪」には洞院公宗(1241〜1263.23歳)が同母妹の佶子を愛してしまって悩むという奇妙な、そして洞院家にとっては絶対に隠しておきたい不名誉な話が載っており(原文はこちら。)、「公宗中納言も、かひなき物思ひの積りにや、はかなくなり給ひぬ」はそれを受けたもの。
 『増鏡』の洞院家に関する記事には相当な悪意が見られ、問題が多い。今谷明氏(「『増鏡』の著者論」)ように、『増鏡』の作者を洞院公賢と考える人もいるが、洞院家の祖である実雄の扱いひとつとっても、およそ子孫の書く内容ではないことは明らかであり、全く賛成できない。





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