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| 原文(『増鏡』(中)全訳注.p207) まことや、文永のはじめつ方(かた)、下り給ひし斎宮(さいぐう)は後嵯峨の院の更衣腹(かういばら)の宮ぞかし。院隠れさせ給ひて後(のち)、御服(ぶく)にており給へれど、なほ御いとまゆりざりけれぱ、三年(みとせ)まで伊勢におはしまししが、この秋の末つ方、御上りにて、仁和寺(にんわじ)に衣笠(きぬがさ)といふ所に住み給ふ。月花門院(げつくわもんゐん)の御次には、いとたふとく思ひ聞え給へりし、昔の御心おきてをあはれに思(おぼ)し出でて、大宮院いとねんごろにとぶらひ奉り給ふ。亀山殿におはします。 十月ばかり斎宮をも渡し奉り給はんとて、本院をもいらせ給ふべきよし、御消息(せうそこ)あれば、めづらしくて、御幸あり。その夜は女院の御前にて、昔今(むかしいま)の御物語りなど、のどやかに聞え給ふ。又の日夕つけて衣笠殿へ御迎へに、忍びたる様にて、殿上人一、二人、御車二つばかり奉らせ給ふ。寝殿の南おもてに御しとねどもひきつくろひて御対面あり。とばかりして院の御方へ御消息聞え給へれば、やがて渡り給ふ。女房に御はかし持たせて、御簾(みす)の内に入り給ふ。 女院は香(かう)の薄(うす)にびの御衣(おんぞ)、香染めなど奉れば、斎宮、紅梅の匂ひに葡萄(えび)染めの御小袿(こうちき)なり。御髪(ぐし)いとめでたく、盛りにて、廿に一、二や余り給ふらんとみゆ。花といはば、霞の間のかば桜、なほ匂ひ劣りぬべく、いひ知らずあてにうつくしう、あたりも薫(かを)る御さまして、珍らかに見えさせ給ふ。 院はわれもかう乱れ織りたる枯野の御狩衣(かりぎぬ)、薄色の御衣、紫苑(しをん)色の御指貫(さしぬき)、なつかしき程なるを、いたくたきしめて、えならず薫り満ちて渡り給へり。上臈だつ女房、紫の匂ひ五つに、裳(も)ばかりひきかけて、宮の御車に参り給へり。神世の御物語などよき程にて、故院の今はの比(ころ)の御事など、あはれになつかしく聞え給へば、御いらへも慎ましげなる物から、いとらうたげなり。をかしき様なる酒(みき)、御菓物(くだもの)、強飯(こはいひ)などにて、今宵は果てぬ。 院も我が御方にかへりて、うちやすませ給へれど、まどろまれ給はず。ありつる御面影、心にかかりて覚え給ふぞいとわりなき。「さしはへて聞えんも、人聞きよろしかるまじ。いかがはせん」と思(おぼ)し乱る。御はらからといへど、年月よそにて生(お)ひたち給へれば、うとうとしくならひ給へるままに、慎ましき御思ひも薄くやありけん、猶(なほ)ひたぶるにいぶせくてやみなんは、あかず口惜(くちを)しと思す。けしからぬ御本性なりや。 なにがしの大納言の女(むすめ)、御身近く召し使ふ人、かの斎宮にも、さるべきゆかりありて睦しく参りなるるを召し寄せて、「馴れ馴れしきまでは思ひ寄らず。ただ少しけ近き程にて、思ふ心の片端を聞えん。かく折よき事もいと難(かた)かるべし」とせちにまめだちてのたまへば、いかがたばかりけん、夢うつつともなく近づき聞え給へれば、いと心うしと思せど、あえかに消えまどひなどはし給はず。らうたくなよなよとして、あはれなる御けはひなり。鳥もしばしば驚かすに、心あわたたしう、さすがに人の御名のいとほしければ、夜深くまぎれ出で給ひぬ。 日たくる程に、大殿籠(おほとのごも)り起きて御文(ふみ)奉り給ふ。うはべはただ大方(おほかた)なるやうにて、「ならはぬ御旅寝もいかに」などやうに、すくよかに見せて、中に小さく、 夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる 「いとつれなき御けしきの聞えん方(かた)なさに」ぞなどあめる。悩ましとて御覧じも入(い)れず。強ひて聞えんもうたてあれば、「なだらかにもてかくしてを、わたらせ給へ」など聞えしらすべし。 |
| 井上宗雄氏の現代語訳 |
私の立場からの補足 | |
さて、文永の初めごろ、伊勢に下向された斎宮(※子内親王)は、後嵯峨院の更衣の御腹からお生まれになった方である。院がなくなられた後、服喪で斎宮を辞されたが、なお正式の辞任が許されなかったので、その後三年も伊勢にいらっしゃったが、この(建治元年)暮秋のころ上洛されて、仁和寺の辺で衣笠(きぬがさ)という所にお住まいになる。月花門院の御次にたいへん、だいじに思われた、故後嵯峨院の御意向を、しみじみと思い出されて、大宮院はたいそう懇切にお世話申しあげなさる。女院は亀山殿においでになる。 |
※りっしんべんに「豈」 | |
| 十月ごろ、斎宮をもお迎え申しなさろうとして、後深草院をもお越しになるようにとお便りがあったので、珍しく思われて御幸があった。その夜は、後深草院が大宮院の御前で昔や今のお話などをのんぴりとなさる。翌日夕方になって、衣笠殿へ斎宮をお迎えに、内々の形式で、殿上人一、二人、御車二両ほどをさし上げなさる。寝殿の南面におしとね(敷物)などをととのえて(女院・斎宮の)御対面がある。しばらくして後深草院のほうへお便りをさしあげられると、すぐお越しになる。女房に御佩刀(みはかし)を持たせて御簾(みす)の中にお入りになる。 | ||
| 大宮院は香(こう)色の薄墨色の御衣(おんぞ)に香染めの小袖などをお召しになる。斎宮は紅梅の匂いの重袿(かさねうちき)に、えび染めの御小袿である。御髪(みぐし)がたいへんみごとで、今を盛りのお年ごろで、二十歳(はたち)を一つ二つ越しておられるだろうとお見えになる。花にたとえていえば、霞の間に咲き匂うかば桜も、このお姿に比べてやはり美しさは劣りそうで、なんともいいようなく高貴で上品で、あたりも薫るような御様子で、じつに世にもまれにお見えになる。 |
ところで、この前斎宮の話は、1275年11月(ただし、『増鏡』では10月となっている)の煕仁親王(伏見天皇)立太子の記事の直後に出てくる。 後嵯峨院は後継者を誰にするかを遺言書には書かなかったので紛糾が生じたが、幕府から大宮院に問い合わせたところ、後嵯峨院の意向は弟の亀山天皇にあったとの回答があり、これが決め手となって亀山天皇の親政となった。そのため後深草院と大宮院の関係もしっくりしなかったが、1275年に幕府の斡旋で後深草院の子の煕仁親王の立坊が決まったので、両院の間の関係修復のために、今回の御対面となった、とされている。「めづらしく」の一言の背後にはこれだけの事情があるのである。 なお、『増鏡』が煕仁親王の立坊を11月ではなく10月とし、同じ10月に、こうした変な話を持ってきていることは、これらの話が事実ではないことの注意書きなのではないか、という感じがする。「けしからぬ御本性なりや」(よろしくない御性格であるよ)というのは、作者が自分自身について、にんまり笑いながら言っているように、私には思われる。 | |
| 後深草院は、われもこうを乱れ織りにした枯野色の御狩衣、その下に薄紫色の小袖を着、紫苑色の御指貫という、心ひかれるような親しみ深い服装で、そこに香を充分にたきしめて、周りになんともいえぬよい薫りを漂わせておられる。斎宮のお供には、位の高そうな女房が、紫の匂いの五つ衣(ぎぬ)に裳だけをつけて、車に陪乗して参られる。斎宮の伊勢でのお話など、適度にあって、(その後)後深草院が後嵯峨院の御臨終のころの御事を、しみじみとなつかしくお話しなさると、お返事もひかえめではあるが、たいへんかわいらしい。趣のあるお酒、お菓子、強飯(こわいい)などのご馳走で、その夜(の対面のこと)は終った。 | ||
| 後深草院も御自分の部屋に帰っておやすみになったが、お眠りになれない。さっきの斎宮の面影がお心に残って忘れられないのが、なんとも困ったことだ。「わざわざ(思いをこめた)手紙をさしあげるのも人聞きがよくなかろう。どうしようか」と思い乱れられる。御兄妹とはいっても、長い年月を外でお育ちになったので、すっかり疎遠になってしまわれているわけで、(妹に恋するのはよくないのだ、という)慎まれるお気持も薄かったのであろうか、やはりひたすらに思いもかなわず鬱々として終ってしまうのは、不満足で残念に思われる。よろしくない御性格であるよ。 | ||
| 某大納言の娘で御身近に召し使う女房が、その斎宮にも然るべき縁があって親しく参り慣れている、その者を召し寄せて、「(斎宮に)慣れ慣れしく、深い仲になろうとまでは思ってもいない。ただすこし近い所で、思う私の心の一端を申しあげようと思う。こういういい機会も容易に得がたいであろう」と熱心に、まじめになっておっしゃるので、(その女房は)どううまく取りはからったのであろうか、(院は闇の中を)夢ともうつつともなく(斎宮に)近寄り申しなさると、斎宮はまことにつらいことと思われたが、弱々と、今にも死にそうにうろたえるということもなさらない。かわいらしくなよなよとして、可憐な御様子である。 そのうち、暁を知らせる鳥の声も、しばしば目を覚まさせるので、心もそわそわとして落着かず(名残は惜ししまれるが)、やはり斎宮のお名前が(浮き名が立つと)お気の毒なので、夜深い中を忍んでお出ましになった。 |
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日が高くなったころ、お目覚めになって、お手紙をさしあげなさる。表面はただ普通の手紙のようにして、「お慣れにならない御旅寝はいかがでしたか」などのように、まじめに見せて、中に小さい字で、
「まことによそよそしい御様子で、なんとも申しあげようもございません」と書かれたようである。斎宮は、気分が悪いといって御覧にもならない。無理になにやかやと申しあげるのも心ないことなので、院は「(お気持を)平らかになさって、なんでもなかったふうにしておいでください」など申しあげられるようだ。 |
| 補説 井上宗雄氏は「解説」で次のように述べておられる。
井上氏が言われるように、『とはずがたり』と較べて『増鏡』に生々しさが少ないことは事実であるが、しかし、そもそもこうした話題を歴史書に入れること自体が、随分生々しくて異常な感じがする。 小西甚一氏も、この部分の『とはずがたり』と『増鏡』の文体を詳細に比較して、「異様な事態を、他に見かけない扱いかたで執拗に述べ尽くす『とはずがたり』」に対して、「『増鏡』の文章が筋の通った明晰さと、省いてよい所は切り詰め余情に残す巧緻さと、和文古典に用例のある言い方で語り進める優雅さとを併せもつ」ことを激賞しているのであるが(『日本文藝史L』講談社.p481)、私には別にそれほど違いがあるようには感じられない。むしろ、同じ作者が簡単に使い分けられる程度の僅かな違いに過ぎないと思われる。 小西甚一氏は細部にとらわれ過ぎであり、歴史書にこのような話題を採り入れること自体が、「異様な事態」であり、「他に見かけない」「執拗」さの現れであることを素直に認識すべきはないか、と私は考える。 |