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| 原文(『増鏡』(中)全訳注.p226以下) その後(のち)も、折々は聞(きこ)え動かし給へど、さしはへてあるべき御ことならねば、いと間遠(まどほ)にのみなん。「負くるならひ」まではあらずやおはしましけん。 あさましとのみ尽きせず思(おぼ)しわたるに、西園寺大納言忍びて参り給ひけるを、人柄もきはめてまめしく、いとねんごろに思ひ聞え給へれば、御母代(ははしろ)の人なども、いかがはせんにて、やうやう頼みかはし給ふに、ある夕つ方、「内よりまかでんついでに、又かならず参り来ん」と頼め聞え給へりければ、その心して、誰(たれ)も待ち給ふ程に、二条の師忠(もろただ)の大臣(おとど)、いと忍びてありき給ふ道に、かの大納言、御前(ごぜん)などあまたして、いときらきらしげにて行きあひ給ひければ、むつかしと思(おぼ)して、この斎宮の御門あきたりけるに、女宮の御もとなれば、ことごとしかるべき事もなしと思(おぼ)して、しばしかの大将の車やり過ぐしてんに出(い)でんよ、と思(おぼ)して、門の下にやり寄せて、大臣(おとど)、烏帽子直衣(えぼしなほし)のなよよかなるにており給ひぬ。 内には大納言の参り給へると思(おぼ)して、例は忍びたる事なれば、門の内へ車を引き入れて、対(たい)のつまよりおりて参り給ふに、門よりおり給ふに、あやしうとは思ひながち、たそがれ時のたどたどしき程、なにのあやめも見えわかで、妻戸(つまど)はづして人のけしき見ゆれば、なにとなくいぶかしき心地し給ひて、中門(ちゆうもん)の廊(らう)にのぼり給へれば、例なれたる事にて、をかしき程の童(わらは)・女房みいでて、けしきばかりを聞ゆるを、大臣(おとど)覚えなき物から、をかしと思(おぼ)して、尻(しり)につきて入(い)り給ふ程に、宮もなに心なくうち向ひ聞え給へるに、大臣もこはいかにとは思せどなにくれとつきづきしう、日頃の心ざしありつるよし聞えなし給ひて、いとあさましう、一方(ひとかた)ならぬ御思ひ加はり給ひにけり。 大納言はこの宮をさしてかく参り給ひけるに、例ならず男の車よりおるるけしき見えければ、あるやうあらんと思(おぼ)して、「御随身(みずいじん)一人そのわたりにさりげなくてをあれ」とて留(とど)めて帰り給ひにけり。男君はいと思ひの外に心おこらぬ御旅寝なれど、人の御けしきを見給ふも、ありつる大将の車など思(おぼ)しあはせて、「いかにもこの宮にやうあるなめり」と心え給ふに、「いと好き好きしきわざなり。よしなし」と思せば、更(ふ)かさで出(い)で給ひにけり。 残し置き給へりし随身(ずいじん)、このやうよく見てければ、しかじかと聞えけるに、いと心憂しと思して、「日頃(ひごろ)もかかるにこそはありけめ。いとをこがましう、かの大臣(おとど)の心の中(うち)もいかにぞや」とかずかず思し乱れて、かき絶え久しくおとづれ給はぬをも、この宮には、かう残りなく見あらはされけんともしろしめさねば、あやしながら過ぎもて行く程に、ただならぬ御気色にさへ悩み給ふをも、大納言殿は一筋(ひとすぢ)にしも思(おぼ)されねば、いと心やましう思ひ聞え給ひけるぞわりなき。 されどもさすが思しわく事やありけむ、その御程のことどもも、いとねんごろにとぶらひ聞えさせ給ひけり。こと御腹(おんはら)の姫宮(ひめみや)をさへ御子になどし給ふ。御処分(そぶん)もありけるとぞ。幾程なくて弘安七年二月十五日宮かくれさせ給ひにしをも、大納言殿いみじう嘆き給ふめるとかや。 |
| 井上宗雄氏の現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| その後も、時々はお手紙をさし上げて、女宮のお気持を動かしなさったが、わざわざお会いになるほどのことでもないので、たいそう御疎遠にばかりなっていったのであった。「激しい恋心には忍ぶ心も負けになるのが習いだ」というほどの御執心ではなかったのだろう。 それを情けないこととばかり女宮はずっと思っておられると、西園寺大納言実兼が忍んで通って来られたが、人柄もこのうえなく誠実で、たいそう心をこめて思い申されるので、母かた代りとなっている方(かた)も、仕方があるまいということで、しだいに深く頼りにして行かれると、ある夕方、「宮中から退出するついでに、きっとうかがいましょう」と約束し、あてにさせなさったので、女宮のほうでもそのつもりでだれもがお待ちしているうち、大臣二条師忠(もろただ)公がたいへんお忍びでお歩きになる途中、あの実兼大納言が御前駆などを多くととのえて、まことに花やかな様子で来られるのに出会われたので、めんどうだと思われて、ちょうどこの斎宮(女宮)の御門があいていたので、女宮のお住まいだから(ちょっと門内に入っても)たいしたことはあるまいと思われて、しばらく待って、あの大将(実兼)の車をやり過ごして出ようと思われて、わが車を門の下に引き寄せて、師忠公は烏帽子直衣(えぼしのうし)鼻の(着慣れた)柔かい服装でお降りになった。 |
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| 女宮のほうでは大納言が参られたのだと思われて、いつもは忍んで来られることとて、門のうちへ車を引き入れて対(たい)の屋(や)の端のほうからいらっしゃるのに、(今夕は)門の所からお降りになるのを変だとは思いながら、夕暮時のはっきりしないころで、何の見わけもつかず、(師忠公のほうは)妻戸のかけがねを外して自分の訪れを待つ人の気配がみえるので、なんとなく不思議な気持がされて、中門の廊へ上られると、宮のほうではいつも慣れたことなので、かわいらしい童や女房が現われ出て、形ばかりお迎えの口上を申すのを、大臣は思いがけないことだが興あることに思われて、そのあとについて奥にお入りになると、女宮も何心なく対座申されたので、大臣はこれはいったいどうしたことかとは思われたが、なにかとこの場にふさわしいように、日ごろからお慕い申す気持があったことなどうまく申しあげなさって、(そこで女宮のほうは間違いに気づき)ほんとうに驚いて、ひととおりでないお悩みが加わりなさったのであった。 |
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| 実兼大納言はこの女宮の所をこころざして、このように参られたのだが、いつもとは違って男が車からおりる様子が見えたので、なにかわけがあるのだろうと思われて、「御随身(みずいじん)一人、その辺でなにげないふうをして様子を見ていよ」といって、御随身をとどめて帰られた。師忠公はまことに意外で、気の進まぬ御旅寝ではあるが、女宮の御様子を御覧になっても、また先程の実兼大将の車のことなどを思い合わせられて、「どうも(実兼は)この宮とわけがあるようだ」と合点されると、「(それと知ってこういうことをするのは)ほんとうに好色なしわざだ。つまらないことだ」と思われたので、夜更けにならぬうちにそこをお出になった。 |
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| (実兼が)残して置かれた随身はこの様子をよく見たので、「かくかくしかじかでございます」と実兼に言上したので、実兼はたいへん情けなく思われて、「つね日ごろもこうであったのだろう。たいそうばかな目にあったものだし、またあの大臣の(私に対する)思わくもどうであろう」と、いろいろ思い乱れられて、その後は長い間まったく訪れがないのをも、この宮のほうでは、あんなにまですっかり(実兼に)見あらわされてしまったともご存じでないので、不思議に思いながら過ぎて行くうちに、宮が懐妊の御様子で悩んでおられるのをも、実兼大納言は、宮の相手が自分一人とも思われないので、このことをたいへん不愉快に思い申したのも、どうにもしようがないことであった。 |
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| しかしやはり(自分の子と)思い当たられることがあったのだろうか、お産のときのことなどもたいそう懇切にお世話申しあげたのであった。別の御腹に出来た姫君をまでもこの宮の御子になどなされた。財産の御分配もあったということだ。いくらもたたぬうちに、弘安七年(一二八四)二月十五日に宮が亡くなられたのを、実兼大納言はたいそう嘆かれたということである。 |
※りっしんべんに「豈」 |
| 『増鏡』作者の「友達感覚」 この場面は『増鏡』作者の身分や性格を考える上で非常に興味深い箇所である。 即ち『増鏡』作者は、斎宮という当時としても極めて特殊・神秘的存在であった女性への敬意を全くもたないどころか、むしろからかいに満ちた冷ややかな視線を向けており、摂関家の二条師忠に対しても同様である。 また、比較的良い役回りである西園寺実兼にしても、ずいぶん馴れ馴れしい描き方をしているのであり、その種の馴れ馴れしさは、この直前の場面で、後深草院を、「今宵一夜だけの機会に、旅寝の夢をともにしたいものだという御心が抑え難くて、たいそう小柄でいらっしゃる後深草院が、お召物などもそのつもりでしなやかなものを着て、他の物音とまぎらしながら、そっと行動なさる」などと描いているところに一番はっきりと現れているのである。 『増鏡』作者を考える上で、現代人にとって一番分かりにくいのは、『増鏡』作者が天皇を含む貴族社会の最高レベルの構成員に対して向ける視線の馴れ馴れしさ、一種の「友達感覚」なのではないかと私は考えるが、この点も『増鏡』作者を後深草院二条と仮定すれば、すっきりと落ち着くように思われる。 |
