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『とはずがたり』巻1.「後嵯峨院発病、六波羅の変事 」






原文(『とはずがたり(上)全訳注』p79)


 かくて九月(ながつき)のころにや、法皇御悩みといふ。腫(は)るる御ことにて、御灸(きう)いしいしとひしめきけれども、さしたる御しるしもなく、日々に重(おも)る御けしきのみありとて年も暮れぬ。あらたまの年どもにも、なほ御わづらはしければ、何ごとも栄(は)えなき御ことなり。

 正月(むつき)の末になりぬれば、かなふまじき御さまなりとて嵯峨御幸(ごかう)なる。御輿(こし)にて入(い)らせ給ふ。新院やがて御幸、御車のしりに参る。両女院(にようゐん)同車にて、御匣殿(みくしげどの)御(おん)しりに参り給ふ。

 道にて参るべき御煎(せん)じ物を、種成・師成二人して、御前にて御水瓶(みづがめ)二つにしたため入れて、経任(つねたふ)、北面(ほくめん)の下臈(げらふ)のぶともに仰(おほ)せて持たせられたるを、内野(うちの)にて参らせんとするに、二つながらつゆばかりもなし。いと不思議なりしことなり。それよりいとど臆せさせ給ひてやらん、御心地も重らせ給ひてみえさせおはします、などぞ聞き参らせし。

 この御所(ごしよ)は、大井殿の御所にわたらせ給ひて、ひまなく、男・女房・上臈(じやうらふ)・下臈(げらふ)をきらはず、「ただいまのほど、いかにいかに」と申さるる御使、夜昼ひまなきに、長廊をわたるほど、大井川の波の音、いとすさまじくぞ覚え侍(はべ)りし。

 二月(きさらぎ)の初めつ方(かた)になりぬれば、いまは時を待つ御さまなり。九日にや両六波羅(ろくはら)御とぶらひに参る。めんめんに嘆き申すよし、西園寺の大納言披露(ひろう)せらる。十一日は行幸(ぎやうかう)、十二日は御逗留(とうりう)、十三日還御(くわんぎよ)などはひしめけども、御所のうちはしめじめとして、いととりわきたる物のねもなく、新院御対面ありて、かたみに御涙ところせき御けしきも、よそさへ露のと申しぬべき心地ぞせし。

 さるほどに、十五日の酉(とり)の時ばかりに、都の方(かた)におびたたしく煙(けぶり)立つ。いかなる人のすまひ所、あとなくなるにかと聞くほどに、六波羅の南方(がた)、式部大輔(しきぶのたいふ)討たれにけり。そのあとの煙なりと申す。あへなさ申すばかりなし。九日は君の御病の御とぶらひに参り、今日とも知らぬ御身に先だちてまた失(う)せにける、東岱(とうたい)前後のならひはじめぬことながら、いとあはれなり。十三日の夜よりは、物など仰せらるることもいたくなかりしかば、かやうの無常も知らせおはしますまでもなし。



次田香澄氏による現代語訳

私の立場からの補足

 このようにして九月になったころだったか、法皇さまが御病気でいらっしゃるという。御体がお腫(は)れになり、御灸(きゅう)やなにやとあわただしいが、大した効果も見えられず、日々に重くなるばかりの御様子だということで、年も暮れてしまった。年が改まっても相変らずお悪いので、何ごとも浮き立たない御所の空気である。

 正月の末になると、とても見込みのない御様子だというので、法皇は嵯峨の離宮へ御幸になる。御輿(こし)でおいでになった。新院(後深草院)もつづいて御幸になる、その御車に私が御奉仕した。両女院が御同車でお供され、御匣(みくしげ)殿がその御車に御奉仕になった。

後嵯峨法皇(1220〜72.53歳)についてはこちら

灸の歴史についてはこちら。なお、皇太子に灸治療することの是非について大問題となったことが『増鏡』巻八「あすか川」に出ている。こちら
『五代帝王物語』には「正月十七日、嵯峨殿へ入らせ御座す」とある。『増鏡』では「十七日亀山殿へ御幸なる」となっている。
「御匣殿」は内大臣三条近親女従二位房子。久明親王(1276〜1328.53歳)母。
 さて道の途中で召し上がることになっていた御煎(せん)じ薬を、医師の種成・師成の二人が法皇の御前で御水瓶(がめ)二つに調合して入れ、経任(つねとう)が北面(ほくめん)の下臈(げろう)ののぶともに命じて持たせられていたが、それを内野で法皇に差上げようとすると、二瓶とも御薬が一滴もはいっていない。まことに不思議なことであった。それから法皇はいよいよおじけづかれてであろうか、御病状も悪くなられたようにお見えになったなどと聞いたことだった。


種成・師成はともに和気氏。

『五代帝王物語』には中御門経任(1233〜97.65歳)が「中御門大宮」で薬を差し上げようとしたところ、「御煎物心うつくしく一滴もなくうせにけるぞ、まことに不思議に覚侍し」とある。種成・師成・「のぶとも」は登場しない。他方、『増鏡』では場所は「内野」で種成・師成・「信友」は登場するが、経任の役を四条隆良(?〜1296)が演じている。
 こちらの院様は、大井殿の御所においでになって、絶え間なく男や女房、それも上臈・下臈を問わず、「ただいまの御様子はいかがですか、いかがですか」と申される御使いが、夜昼ひまなく、法皇様の御もとへ立てられたが、私は院の御使いで離宮の長廊下を渡るとき、大井川の波の音を、まことに物寂しく聞いたことだった。

 二月の初めごろになると、今は御臨終を待つばかりの御様子である。九日であったか、両六波羅の探題が御見舞に参った。めいめいの者が法皇の御病気を嘆き申しあげている由を、西園寺の大納言がとりついで披露(ひろう)された。十一日は主上(亀山院)の行幸があり、十二日離宮に御逗留(とうりゅう)、十三日にお帰りなどとつぎつぎ忙しいが、御所の内はしんみりとして、とくにこれといった物音も立てず、新院が主上と御対面になって、互いに御涙にくれられる御様子も、「よそさへ露の」と申しあげたいような心地がした。

『五代帝王物語』には六波羅北方・義宗(1253〜1277.25歳)、南方・時輔(1248〜72.25歳)が法皇を見舞ったことは書かれていない。『増鏡』には日付の明示はないが、「六波羅北南、御とぶらひに参れり」とある。
「西園寺の大納言」は実兼。正確には「権大納言」。
 そのうち、十五日の午後六時ごろに、都の方におびただしく煙が上がった。どういう人の家が焼けてしまうのかと聞いてみると、そのうち、六波羅南方(がた)の探題の式部大輔(たいふ)(北条時輔)が(幕府の命で)討たれてしまった、そのあとの邸炎上の煙だという。あっけないことは言いようもない。九日には法皇の御病気の御見舞に参ったのに、今日ともわからない法皇御自身に先だって自分がまた亡くなってしまったとは、人の死の、だれが先になり、だれが後になるかわからない習いは、今に始まったことでないとはいえ、まことに哀れである。法皇には、十三日の夜からは物などおっしゃられることも、まったくなかったので、このような無常の出来事も、御存じになるまでもなかった。 北条時輔については細川重男氏「襲来前夜 蒙古国書と使者到来」と川添昭二氏 「北条時宗の研究−連署時代まで−」が参考となる。




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