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『とはずがたり』巻1.「後嵯峨院の死去と葬送」






原文(『とはずがたり(上)全訳注』p85)


 さるほどに十七日のあしたより御気色(けしき)かはるとてひしめく。御善知識には経海僧正(けいかいそうじやう)、また往生院(わうじやうゐん)の長老参りて、さまざま御念仏もすすめ申され、「今生(こんじやう)にても十善(じふぜん)の床(ゆか)をふんで、百官にいつかれましませば、よみぢ未来もたのみあり。早く上品上生(じやうぼんじやうしやう)のうてなに移りましまして、かへりて、娑婆(しやば)の旧里にとどめ給ひし衆生(しゆじやう)も導きましませ」など、さまざまかつはこしらへ、かつは教化(けうげ)し申ししかども、三種の愛に心をとどめ、懺悔(さんげ)の言葉に道をまどはして、つひに教化の言葉にひるがへし給ふ御けしきなくて、文永九年二月(きさらぎ)十七日酉(とり)の時、御年五十三にて崩御なりぬ。一天かきくれて万民愁(うれ)へにしづみ、花の衣手おしなべてみな黒みわたりぬ。

 十八日、薬草院殿へ送り参らせらる。内裏よりも頭(とう)中将御使に参る。御室(おむろ)・円満院・聖護院(しやうごゐん)・菩提院(ぼだいゐん)・青蓮院(しやうれんゐん)、みなみな御供に参らせ給ふ。その夜の御あはれさ、筆にもあまりぬべし。

 経任(つねたふ)さしも御あはれみふかき人なり、出家ぞせんずらんと、みな人申し思ひたりしに、御骨(こつ)の折、なよらかなるしじらの狩衣(かりぎぬ)にて、瓶子(へいじ)に入(い)らせ給ひたる御骨を持たれたりしぞ、いと思はずなりし。

 新院御なげきなべてには過ぎて、夜昼御涙のひまなくみえさせ給へば、候(さぶら)ふ人々も、よその袖(そで)さへしほりぬべきころなり。天下諒闇(りやうあん)にて、音奏・警蹕(けいひつ)とどまりなどしぬれば、花もこの山のは墨染(すみぞめ)にや咲くらんとぞおぼゆる。

 大納言は人より黒き御色を賜はりて、この身にも御素服を着るべきよしを申されしを、「いまだ幼きほどなれば、ただおしなべたる色にてありなん。とりわき染めずとも」と、院の御かた御けしきあり。



次田香澄氏による現代語訳

 そうこうしているうちに、十七日の朝から御容態が急変したとて騒ぎ立った。御善知識には経海僧正(けいかいそうじょう)、それに往生院の長老が参って、さまざまに御念仏も勧め申され、「今生(こんじょう)でも十善の天子の位につき、百官に奉仕されていらした御身であるから、黄泉(よみじ)も来世も頼もしいことです。早く上品上生(じょうぼんじょうしょう)の台(うてな)にお移りになられ、振り返って娑婆(しゃば)のこの世にお残しになった衆生(しゅじょう)をもお導きくださいますように」 など、いろいろにおなだめ申したり、教え導き申したけれども、この世の三種の愛に執着がお残りで、懺悔(さんげ)の言葉をなかなか口にお出しになれないで、ついに御教導の言葉にも急にお改まりの御様子のないまま、文永九年二月十七日の午後六時ごろ、御年五十三で崩御なされた。一天にわかに空も暗がり、万民は愁(うれ)えに沈み、花やかな着物の袖(そで)もみな一様に黒く変った。

 十八日、薬草院殿へ棺(ひつぎ)をお送り申しあげられた。内裏からも頭中将が御使いに参る。院の皇子である御室・円満院・聖護院・菩提院・青蓮院の法親王方がみな御供に従われた。その夜の悲しさは書けば筆にも余るぐらいである。

 経任(つねとう)は、あれほど法皇の御寵愛が深かった人である、定めて出家をすることであろうと、だれしも言い思っていたのに、御火葬の帰途、なよなよとしたしじらの狩衣(かりぎぬ)の服装で、壺にお入れしてあるお骨(こつ)を持っておられたのはまったく意外であった。

 新院(後深草院)のお嘆きはひととおりでなく、夜昼御涙の乾くまもなくお見えになるので、お仕えする人々も、院のお悲しみに誘われて袖がぬれしおれそうな今日このごろである。天下は諒闇で、音奏・警蹕(けいひつ)の声も停止してしまったから、桜の花もこの嵐山のは墨染の色に咲くかと思われた。

 父の大納言は他の人よりはいちだんと黒い喪服を着るようにとの仰せをいただいて、私にも同じく黒い喪服を着ることをお願い申されたが、「まだ幼い年ごろであるから、ただ普通の喪服でよかろう、格別黒く染めなくても」という院のおぼしめしであった。


※この場面に対応する『増鏡』の原文はこちら




「私の立場からの補足」は後日掲載します。


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