10.9/29
| 原文(『講談社学術文庫.とはずがたり(上)全訳注』p96) 五月(さつき)はなべて袖(そで)にも露のかかるころなればにや、大納言の嘆き秋にもすぎて露けくみゆるに、さしも一夜(ひとよ)もあだには寝じとするに、さやうのこともかけてもなく、酒などの遊びもかきたえなきゆゑにや、如法(によほふ)やせ衰へたるなど申すほどに、五月十四日の夜、大谷なる所にて念仏のありし、聴聞して帰る車にて、御前(ごぜん)などもありしに、「あまりに色の黄にみえ給ふ。いかなることぞ」など申し出(いだ)したりしを、あやしとて医師(くすし)にみせたれば、「黄病(きやまひ)といふことなり。あまりに物を思ひてつく病なり」と申して、灸治(きうぢ)あまたするほどに、いかなるべきことにかとあさましきに、次第に重りゆくさまなれば、思ふはかりなく覚ゆるに、わが身さへ、六月(みなづき)のころよりは心地も例ならず、いとわびしけれども、かかるなかなれば何とかはいひ出づべき。 大納言は、「いかにもかなふまじきことと覚ゆれば、御所の御ともにいま一日もとくと思ふ」とて、祈りなどもせず。しばしは六角櫛笥(くしげ)の家にてありしが、七月(ふづき)十四日の夜、河崎の宿所へうつろひしにも、幼き子どもはとどめおきて、静かに臨終のことどもなど思ひしたためたり。 おとなしき子の心地にてひとりまかりて侍りしに、心地例ざまならぬを、しばしは、わがことを嘆きて物なども食はぬと思ひて、とかく慰められしほどに、しるきことのありけるにや、「ただならずなりにけり」とて、いつしか、わが命をもこのたびばかりはと思ひなりて、はじめて中堂にて、如法、泰山府君(たいざんぶく)といふこと七日まつらせ、日吉(ひよし)にて七社(やしろ)の七番の芝田楽(しばでんがく)、八幡(やはた)にて一日の大般若(はんにや)、河原(かはら)にて石の塔、なにくれと沙汰(さた)せらるるこそ、わが命の惜しさにはあらで、この身のことの行末の見たさにこそと覚えしさま、罪ふかくこそ覚え侍れ。 |
| 次田香澄氏の現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| この五月は、ふだんでも梅雨でしめり勝ちなころであるからか、父大納言の嘆きは、秋にも過ぎて露けく涙勝ちに見えたが、あんなに一夜も女なしでは寝まいというくらいだったのに、そのようなこともすっかりなくなり、酒宴などの遊びも絶えてなくなったためか、ひどく痩せ衰えたなどと家人も申していた。 |
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| そのうちに、五月十四日の夜、(東山)大谷という所で念仏があったのを聴聞(ちょうもん)して帰る車で、御前駆の者などもいたが、それらが、「大納言のお膚の色があまりに責色くお見えなさいます。どうしたことでございましょう」などと言い出したのを、おかしいというわけで医師に見せたところ、「黄疸(おうだん)という病です。あまり物思いをするとかかる病気です」と申して、灸治をたくさんする。どうなることだろうかと、心配でたまらない。次第に重くなってゆく様子なので、ひどく不安でたまらないうえに、私の体まで六月のころからは気分もいつもと違い、たいへん具合がわるいが、こういう(父の病の)際だから、なんといってそれを言い出すことができよう。 | |
| 父は、「どうにも直りそうにないと思われるから、故法皇のお供をして、いま一日も早く死にたいと思う」といって、病気のための祈祷などもしなかった。しばらくは六角櫛笥(くしげ)の(父の継母の)家にいたのを、七月十四日の夜河崎の邸(やしき)に移ったが、幼い子供は前の家にとどめて置いて、静かに臨終のことなどについて心用意をしていた。 |
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| 私は成人した子の気持で一人父の所について行っていたが、体の調子がいつもと違うのを、父はしばらくの間、自分の病気を嘆いて物なども食べないものと思って、いろいろに慰めてくれたが、そのうちに、それとわかることがあったのであろうか、「懐妊したのだね」といって、にわかに自分の命も今度だけは助かりたいと思うようになって、初めて根本中堂で、法式どおり泰山府君(たいざんぶく)ということを七日間祭らせ、日吉(ひよし)神社で七社七番の芝田楽(しばでんがく)、石清水八幡宮で一日の大般若経、賀茂河原で石の塔を積む供養などを、なにやかやと指図される。それは、父自身の命が惜しくてではなくて、(院の皇子を)みごもった私の将来が見たさにこそそうされるのだと思うと、これまで後世を願っていた父に対し、(現世への執着を起させた)私はほんとに罪深いと思った。 |
次田香澄氏は「解説」において、「(雅忠は)彼女の懐妊を知ると、今までただ死のみ思いその心用意をしていたのが、にわかに助かろうとして、いろいろに祈祷を始める。そこには、作者と生まれる子への盲目的な愛情がよく出ていて、あわれである。(中略)河崎の本邸に移った際、後妻との間の幼い子供たちは置いて、作者だけを連れて行ったという点にも、作者をとくに区別して重んじていたことがわかる。」と書かれているが、事実として父が作者に「盲目的な愛情」を注いでいたか、「作者をとくに区別して重んじていた」かは別として、作者がそのような印象を読者に与えるために執拗に描写を重ねていることは確かである。 |
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