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『とはずがたり』巻1.院父を病床に見舞う






原文(『講談社学術文庫.とはずがたり(上)全訳注』p104)


 とかくのこともなく、やがて出(い)づる道すがらも、はや果てぬとや聞かんと思ひゆくに、急ぎ行くと思へども、道のはるけさ東路(あづまぢ)などを分けん心地するに、ゆき着きてみれば、なほながらへておはしけりと、いとうれしきに、「風まつ露も消えやらず、心ぐるしく思ふに、ただにもなしとさへ見おきてゆかん道のそらなく」など、いと弱げに泣かるるほどに、ふけゆく鐘の声ただいま聞ゆるほどに、御幸(ごかう)といふ。いと思はずに病(やまひ)人も思ひさわぎたり。御車さし寄する音すれば急ぎ出(い)でたるに、北面(ほくめん)の下臈(げらふ)二人、殿上人(てんじやうびと)一人にて、いとやつして入(い)らせ給ひたり。

 二十七日の月、ただいま山の端(は)わけ出(い)づる光もすごきに、われもかう織りたる薄色の御小直衣(なほし)にて、とりあへす思(おぼ)し召したちたるさまも、いとおもだたし。「いまは狩の衣(ころも)をひきかくるほどのカも侍(はべ)らねば、みえ奉るまでは思ひより侍らず。かく入(い)りおはしましたると承るなん、いまはこの世の思ひ出なる」よしを奏し申さるる、

程なく、やがてひきあけて入(い)らせ給ふほどに、起き上がらんとするもかなはねば、「たださてあれ」とて、枕に御座を敷きてついゐさせ給ふより、袖(そで)のほかまでもる御涙も所せく、「御幼くよりなれ仕(つか)うまつりしに、いまはと聞かせおはしましつるもかなしく、いま一度と思(おぼ)し召し立ちつる」など仰せあれば、

「かかる御(み)ゆきのうれしさも置きどころなきに、この者が心ぐるしさなん思ひやる方(かた)なく侍る。母には二葉にておくれにしに、我のみと思ひはぐくみ侍りつるに、ただにさへ侍らぬを見おき侍るなん、あまたの憂(うれ)へにまさりて、悲しさもあはれさもいはん方(かた)なく侍る」よし泣く泣く奏せらるれば、「ほどなき袖(そで)を我のみこそ。まことの道の障りなく」などこまやかに仰せありて、「ちと休ませおはしますべし」とて立たせ給ひぬ。

明けすぐるほどに、いたくやつれたる御さまもそらおそろしとて、急ぎ出(い)で給ふに、久我の太政(だいじやう)大臣の琵琶とて持たれたりしと、後鳥羽院の御太刀を、はるかに移され給ひけるころとかや、太政大臣に賜はせたりけるとてありしを、御車に参らすとて、縹(はなだ)の薄様(うすやう)のふだにて御太刀の緒(を)に結びつけられき。

わかれても三世(みよ)の契りのありときけばなほ行末を頼むばかりぞ

「あはれに御覧ぜられぬる。何ごとも心やすく思ひおけ」など、かへすがへす仰せられつつ、還御(くわんぎよ)なりて、いつしか御みづからの御手にて、

このたびはうき世のほかにめぐりあはんまつ暁の有明の空

なにとなく、御心に入りたるもうれしくなど思ひおかれたるも、あはれにかなし。



次田香澄氏の現代語訳

私の立場からの補足

 支度をする余裕もなくそのまま退出する道々も、はや亡くなってしまったとの報(し)らせを聞きはしまいかと心配しながら行くが、急いで行こうとは思っても、道の遠さといったら、まるで遠い東路(あずまじ)を分けて行くようなもどかしい心地がした。行き着いてみれば、まだ生きていらっしゃったと、ほんとにうれしかったが、父は、「風を待つ露のような命も消えかねて、お前のことが心配なのに、普通でない体とさえ知りながら、それをおいてゆくのはほんとうに心残りだよ」などとたいそう弱々しげに泣かれる。

久我雅忠(1228〜1272.45歳)
 そのうち、更けゆく鍾の音がただいま聞えるという時分、「院のおいでです」という。まったく思いがけないことなので、病人も驚いて心を騒がした。御車を寄せる音がするので、急いで出てみると、北面(ほくめん)の下臈(げろう)が二人、殿上人(てんじょうびと)が一人だけで、お忍びでおいでになった。

後深草院(1243〜1304.62歳)
 二十七日の月がちょうど山の端(は)を分け出るところで、その光もすごく見える中に、院はわれもこうの模様を織った薄紫色の御小直衣(のうし)を召し、とりあえず思い立たれた御様子であるのも、父にとってはたいそう面目あることである。父は(家の者を介して)、「今は狩衣(かりぎぬ)を打ち掛けるほどの力もございませんから、お目通りまでは思いも寄りません。このように御自身お見舞いただきましたことを承りますだけが、今はこの世の思い出でございます」と奏上申される。

 程なく院が御自身で部屋の襖(ふすま)を明けておはいりになるとき、父は起き上がろうとするがそれもできない。「かまわずそのままにしていなさい」と院は仰せられて、枕もとに御敷物を敷いて、ちょっと座られるや、袖(そで)の外まであふれるほどの御涙で、「私の幼いときからよく馴(な)れ仕えてくれたが、今は最後らしいと聞くにつけても悲しく、もう一度会っておきたいと思い立って来たのです」と仰せになると、




後深草院は久我雅忠より15歳年下で、1272年の時点では30歳。なお、二条は15歳。
「こうして御所様のおいでをいただくうれしさは、ほんとうにもったいないほどでございますが、この娘への気掛りだけが、どうしようもございません。ごく小さい時に母に先立たれましたので、この子のめんどうをみるのは私だけと思い育んでまいりましたのに、普通の体でさえございませんのを、後に残して死にますことは、どんな憂えにもまさって、悲しさもふびんさも、申しようがございません」このように泣く泣く泰上される。

 院は、「私の袖も十分とはいえないが、この子のことはきっと引受けましょう。真実(仏)の道に障りないよう(心配せずに往生してください)」などとこまやかに仰せになり(家人が)、「ちとお休みくださいませ」と申し上げると、お立ちになった。



二条の母は、二条が2歳の時に死んだとされており、「母には二葉にておくれにしに」(ごく小さい時に母に先立たれました)といった表現が、以後も繰り返し出てくる。
 夜も明け過ぎるころに、ひどくやつした御車の姿が人目に立つのも具合が悪いとて、院は急いでお出になった。その際、父の持っていられた、久我太政大臣(通光)のものだったという琵琶と、後鳥羽院が隠岐に遷幸されるころ太政大臣に賜わったという太刀が家に伝わっていたのを、御車のなかの院に差上げるに当って、父は御太刀の緒(お)に薄藍(うすあい)の薄様(よう)の紙の札に書いた歌を結び付けられた。

わかれても三世(みよ)の契りのありと聞けばなほ行末を頼むばかりぞ

(主従には三世までもつながる縁があると聞きますから、いまお別れしましても、来世までの御縁をひたすらお願いするばかりでございます)



久我通光(1187〜1248.62歳)は、その遺言状で、子供たちは信用できないとして、諸荘園・家の宝物・日記・文書全てを後妻(三条.西蓮.久我尼)に譲っており、通光から雅忠に対して、琵琶や後鳥羽院の太刀等の宝物が直接に伝えられることはなかった。
 もちろん、後に関係者間で何らかの和解が成立して、これらの宝物が後妻から雅忠に渡った可能性も考えられるから、ここに書かれていることが直ちに虚偽だとは言えないが、どんな注釈書を見ても、そうした久我家の深刻な相続問題に関するきちんとした説明が見当たらない。
 こうしたトラブルは、『とはずがたり』の登場人物の人間関係を考えるうえで、非常に重要な事実だと思われるが、国文学者が真剣に検討している気配が全くないのはどうにも奇妙である。( 久我家の相続問題の概要はこちら。)
 院はこれに対し、「しみじみと心をとめて見ました。何ごとも心配なく思っていなさい」と繰り返しおっしゃりつつお帰りになり、さっそく御自身の御筆跡で、

このたびはうき世のほかにめぐりあはんまつ暁の有明の空

(この次は来世で、皆が待ち望んでいる弥勒出世の暁にかならず会おうよ)

父の歌が院の御心に深くとまったのもうれしいなどと、最後に父が思い置かれたことも、なんとなく哀れに悲しい。



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