10.9/29

| 原文(『講談社学術文庫.とはずがたり(上)全訳注.p110 八月(はづき)二日、いつしか善勝寺大納言、御帯とてもちてきたり。「諒闇(りやうあん)ならぬ姿にてあれ、と仰せ下されたる」とて、直衣(なほし)にて、前駆(ぜんくう)・侍(さぶらひ)ごとごとしくひきつくろひたるも、見るをりと思(おぼ)し召し急ぎけるにやと覚ゆ。病人(やまひびと)もいと喜びて、勧盃(けんぱい)などいひいとなまるるぞ、これや限りとあはれに覚え侍りし。御室(おむろ)より賜はりて秘蔵せられたりし、しほがまといふ牛をぞ引かれたりし。 今日などは、心地も少しおこたるやうなれば、もしやなど思ひゐたるに、更けぬれば、かたはらにうちやすむと思ふほどに、寝入(い)りにけり。おどろかされて起きたるに、 「あなはかなや。今日明日とも知らぬ道に出(い)で立つ嘆きをも忘られて、ただ心ぐるしきことをのみ思ひゐたるに、はかなく寝たるを見るさへかなしう覚ゆる。さても二つにて母に別れしより、我のみ心ぐるしく、あまた子どもありといへども、おのれ一人に三千の寵愛(ちようあい)もみな尽したる心地を思ふ。笑(ゑ)めるを見ては、百(もも)の媚(こ)びありと思ふ。愁(うれ)へたるけしきを見ては、共に嘆く心ありて、十五年の春秋(しゆんじう)を送り迎へて、いますでに別れなんとす。 君に仕へ世にうらみなくは、つつしみて怠ることなかるべし。思ふによらぬ世のならひ、もし君にも世にもうらみもあり、世にすむ力なくは、急ぎてまことの道に入りて、わが後生をも助かり、二つの親の恩をもおくり、一つ蓮(はちす)の縁と祈るべし。世に捨られ、たよりなしとて、また異君(こときみ)にも仕へ、もしはいかなる人の家にも立ちよりて、世にすむわざをせば、亡きあとなりとも不孝(ふけう)の身と思ふべし。夫妻のことにおきては、この世のみならぬことなれば力なし。それも髪をつけて、好色の家に名を残しなどせんことは、かへすがへす憂かるべし。ただ世を捨ててのちは、いかなるわざも苦しからぬことなり」 など、いつよりもこまやかに言はるるも、これやをしへの限りならんと悲しきに、明けゆく鐘の声きこゆるに、例の下に敷くおほばこの蒸したるを、仲光持ちて参りて、敷きかへんといふに、「今は近づきて覚ゆれば、何もよしなし。なにまれ、まづこれに食はせよ」といはる。 ただいまは何をかと思へども、しきりに「わが見るをり、とくとく」といはるるより、今ばかりこそ見られたりとも、後はいかにとあはれに覚えしか。いもまきといふ物を、土器(かはらけ)に入れて持ちてきたれば、「かかるほどには食はせぬむのを」とて、よにわろげに思ひたるもむつかしくて、まぎらかしてとり退(の)けぬ。 |
| 次田香澄氏の現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| 八月二日、早くも叔父善勝寺大納言が、院からの私の懐妊の祝いの帯といって、御所から持ってやって来た。「諒闇(りょうあん)の姿でない服装で行くようにと院から仰せくだされた」ということで、直衣(のうし)を着、前駆や侍(さぶらい)が正式に装いを正しているのも、父の見る間にとおぼしめして、急がれたのかと思われる。病人もたいへん喜んで、御使いへの献杯などをあれこれ指図なさるのは、これが最後かとしみじみ哀れを覚えた。仁和寺の法親王から賜わって秘蔵されていた塩釜という牛を、叔父へ祝いの引出物として出された。 |
なお、私は『とはずがたり』の年立てを検討すること自体に意味がない、との立場であるが詳しくはこちら。また、善勝寺についてはこちら。 |
| 今日などは父の病状も少しよいようなので、もしや回復するのではないかと思われたが、夜が更けたので、父の傍らにちよっと休もうと思っているうちに、寝入ってしまった。 ふと目をさまされて起きたところ、父は、 | |
「ああはかないことだ。今日明日ともわからず、まだ知らぬ国へ出(い)で立たねばならぬ悲しみも忘られて、ただおまえへの心配だけを思っていたのに、たわいなく寝ているのを見ると悲しく思われるよ。ところで、おまえが二つで母に死に別れてから、わたしだけがおまえを気がかりに思い、何人も子供があっても、おまえ一人に三千の寵愛をみな傾け尽した心地できた。おまえが笑うのをみては、たいへん魅力があると思い、心を痛めている様子をみては、おまえとともに嘆く気持となって、十五年の春秋を送り迎えしたが、今ははや別れなければならない。 |
楊貴妃が玄宗皇帝の寵愛を一身に受けていたように、多くの子供の中でも作者だけが父の愛を独占し、楊貴妃がひとたび流し目をして笑うと、凄い魅力が生まれたように、作者の美貌と愛嬌は大変なものだった、ということで、次田香澄氏が言われるように、「父の言葉の部分だから目立たないとはいえ、『長恨歌』を引用したのは相当自身があったことになる。作者の文飾だとすればなおさら」なのである。 今にも死にそうな人が外国の古典を複雑に引用して遺言するということはちょっと考えにくいのであって、こんなものは「作者の文飾」に決まっているのであるが、それにしても父親の遺言の形で「私の美貌は楊貴妃並み」と言い切るのだから、作者は本当にいい根性をしているのである。 |
| 君に仕えて、ずっと御寵愛をいただけるようならば、身をつつしんで過ちのないようにしなさい。思いのままにいかないのがこの道の習いだから、もし君の御寵愛が薄れ、周囲のこともうまくいかないようなことがあって、この世を過してゆく力がなくなったら、急ぎ仏の道に入って、おまえ自身の後生(ごしょう)も救われるようにし、その功徳(くどく)で二人の親へ報恩をし、みんな一つ蓮(はちす)の上に往生できるように祈るがよい。世間から見捨てられ頼る者がないからとて、また他の君に仕えたり、どんな人の家にでも頭を下げて生活の手段をとることをするならば、わたしの死後であっても不孝者として勘当(かんどう)すると思いなさい。 | |
| 夫婦の契りというものはこの世だけでない約束事だから、これはどうにもしようがない。それも有髪のままで、わが家に好色の名を残すようなことをするのは、かえすがえすよくないことと思う。ただ世を捨てて後は、どういう生き方をしても差し支えないことなのだ」こういつもよりこまやかに言われるのも、これが教えの最後であろうかと悲しい。 | |
| 明けゆく鐘の音が聞えるころ、例の病人の寝床の下に敷くおおばこの葉の蒸したのを、(乳母子)仲光が持って参って、「敷きかえましょう」というと、「もはや最期が近づいたと思うから、何をしてもいたし方がない。何でもよいまずこの子に食ぺさせなさい」 | |
| 私は、ただいま何を食べることができようか、と思うのだが、父はしきりに、「わたしが見ているときに、早く早く」といわれるので、今だけ見られたとしても、亡くなって後はどうして見てもらえようと、しみじみ哀れに思われた。侍女がいもまきというものを素焼(すやき)の器に入れて持ってくると、父は、「こういう懐妊しているときには食べさせないものを」とて、たいへんよくないことのように思っているのもめんどうなので、まぎらかして下げた。 |
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