更新12.6/23 10.9/30


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『とはずがたり』巻1.父の臨終






原文(『講談社学術文庫.とはずがたり(上)全訳注』p118)


 明けはなるるほどに、「聖(ひじり)よびにつかはせ」などいふ。七月(ふづき)のころ、八坂(やさか)の寺の長老よび奉りて、頂(いただき)そり五戒(ごかい)受けて、れんせうと名づけられて、やがて善知識と思はれたりしを、などいふことにか、三条の尼上(あまうへ)、河原の院の長老、しやう光房といふものに沙汰(さた)せさせよと、しきりにいひなして、それになりぬ。変るけしきありと告げたれども、急ぎもみえず。

 さるほどに、「すでにと覚ゆるに、起せ」とて、仲光、といふは仲綱が嫡子にてあるを、幼くより生(お)ほし立てて、身はなたず使はれしを呼びて、起されて、やがてうしろにおきて、よりかかりの前に女房一人よりほかは人なし。

 これは側にゐたれば、「手の首とらへよ」といはる。とらへてゐたるに、「聖の賜(た)びたりし袈裟(けさ)は」とて乞(こ)ひ出(い)でて、長絹(ちやうけん)の直垂(ひたたれ)ばかり着て、そのうへに袈裟掛けて、「念仏仲光も申せ」とて、二人して時のなからばかり申さる。

 日のちとさし出(い)づるほどに、ちとねぶりて、左の方(かた)へかたぶくやうに見ゆるを、なほよくおどろかして念仏申させ奉らんと思ひて、膝(ひざ)をはたらかしたるに、きとおどろきて目を見あぐるに、あやまたず見合せたれば、「何とならんずらんは」といひもはてず、文永九年八月(はづき)三日辰(たつ)のはじめに、年五十にてかくれ給ひぬ。

 念仏のままにて終らましかば、行未も頼もしかるべきに、よしなくおどろかして、あらぬ言の葉にて息絶えぬるも心うく、すべて何と思ふはかりもなく、天に仰ぎて見れば、日月地に落ちけるにや、光もみえぬ心地し、地に伏して泣く涙は、川となりて流るるかと思ひ、母には二つにておくれにしかども、心なき昔は覚えずして過ぎぬ。生をうけて四十一日といふより、はじめて膝の上にゐそめけるより、十五年の春秋(しゆんじう)を送り迎ふ。朝(あした)は鏡を見るをりも、誰(た)が影ならんと喜び、夕(ゆふべ)に衣(きぬ)を着るとても、誰(た)が恩ならんと思ひき。

 五体身分を得しことは、その恩、迷蘆(めいろ)八万の頂(いただき)よりも高く、養育扶持(ふち)の志、母にかはりて切(せつ)なりしかば、その恩また四大海の水よりも深し。何と報じ、いかにむくいてかあまりあらんと思ふより、折々の言の葉は、思ひ出(い)づるも忘れがたく、今をかぎりの名残は、身にかへてもなほ残りありぬべし。

 ただそのままにて、なり果てんさまをも見るわざもがな、と思へども、限りあれば、四日の夜、神楽岡(かぐらをか)といふ山へ送り侍(はべ)りし。むなしき煙(けぶり)にたぐひても、伴ふ道ならばと、思ふもかひなき袖の涙ばかりをかたみにてぞ、帰り侍りし。むなしきあとを見るにも、夢ならではとかなしく、昨日の面影を思ふ。今とてしもすすめられしことさヘ、かへすがへす何といひ尽すべき言の葉もなし。

わが袖の涙の海よ三瀬(みつせ)川に流れてかよへ影をだに見ん



次田香澄氏の現代語訳

私の立場からの補足

 夜が明けはなれるころに、「聖(ひじり)を呼びにやりなさい」と家人がいう。去る七月のころ、父は八坂(やさか)の寺の長老をお呼びして頂(いただき)の髪を剃り、五戒を受けて、法名をれんせうと名付けられて、そのままその長老を善知識と思っていられたのに、どうしたわけか、(継祖母の)三条の尼上(あまうえ)が、河原の院の長老しやう光房という者にさせるように伝えよと、しきりに主張して、それに決まった。父の容態が悪化したようだからと告げてやったけれども、すぐにはみえない。




「三条の尼上」は久我通光(1187〜1248.62際)の後妻。この人が久我家の全財産を相続した。『とはずがたり』では非常に冷たい人物として描かれており、ここの記述も悪意に満ちている。久我家の相続争いについてはこちら。(国学院大学編『特別展観.中世の貴族』)
 そのうちに父は、「もはや最期(さいご)と思うから起してくれ」といって、仲光 ─ というのは、仲綱の嫡子であるが、幼いときから父が養育して、いつも側近くはなさず使われていた ─ を呼んで、起させて、そのまま父のうしろに居させ、寄り掛りの前に女房一人よりほかはだれもいない。

藤原仲綱・仲光は久我家の家司。家司については風巻景次郎氏の「家司兼好の社会圏」が参考になる。
 私は父の側にいたところ、父は「手首をとらえてくれ」といわれる。つかんでいると、「聖のくださった袈裟(けさ)は」と持ってこさせ、長絹(ちょうけん)の直垂(ひたたれ)だけを着、その上に袈裟をかけて、「念仏を仲光も申せ」といって二人して、一時間ばかり念仏を唱えられた。

この仲光との関係は何か気色悪い感じがする。この点についての私の考え方はこちら
 朝日が少しさし出るころに、父はちょっと眠って、左の方へ傾くようにみえたのを、なおよく目をさまさせて、念仏を唱えさせてあげようと思って膝(ひざ)を動かしたところ、父はふと目をさまして目を見上げると、ぴったり私と視線があったそのとき、「何となることだろうな」と言いも終らず、文永九年八月三日、午前八時ごろ、年五十でお亡くなりになった。

この場面については八嶌正治氏が細かく分析されている。(「頽廃の魅力」
雅忠の経歴についてはライバル堀川基具と比較して検討した。(『徒然草』第99段
『とはずがたり』では「年五十にてかくれ給ひぬ」とあるが、『公卿補任』では45歳である。次田香澄氏は「父の申文でも五十となっているから、これは補任の方を誤りとしなくてはならぬ」とされているが、『公卿補任』というのは参議以上の官・従三位以上の位の補任、その年月などを代々書き継いだ客観的な記録であり、もちろん誤りがないとは言えないが、少なくとも『とはずがたり』よりは遙かに信頼性の高い史料である。次田香澄氏の言われることは、ちょっと理解に苦しむ。

「母には二歳で先立たれたけれど」は3度目であり、さすがにしつこい。また、「朝は鏡をみるおりにも、だれの容貌を受けているのだろうとうれしく思い」というのも、結局は自分が美人であることを自慢したい訳であり、何だかなあ、という感じがする。
 念仏のままで終ったとしたならば、来世(せ)も頼もしいことであろうに、起すなど余計なことをして、とんでもない言葉で息が絶えてしまったのも情けなく、すべてなんとも考えめぐらしようもなく、仰いで見れば、日月も地に落ちたように光もみえぬ心地がし、伏して泣く涙は川となって流れるかと思われる。

 母には二歳で先立たれたけれど、もの心もつかなかった昔のことは、何もわけがわからないで過ぎてしまった。生まれて四十一日めからはじめて父の膝の上に抱かれ始め、それより十五年の春秋を父とともに送り迎えしてきた。朝は鏡をみるおりにも、だれの容貌を受けているのだろうとうれしく思い、夕べに着物を着るにつけても、だれの恩によるのだろう、(みな父のおかげだ)と思った。

 この五体、この身分を授かったについては、その恩は迷蘆(めいろ)八万の頂(いただき)よりも高く、養育の愛情は母にかわって切なるものがあったから、その恩はまた四大海の水よりも深い。なんと恩返しをし、どのように報いても及ばないだろうと思うことを始め、おりおりの父の言葉は思い出しても忘れがたく、これが最後の名残惜しさは、自分の体にかえてもなお余りがあるような気がした。

 父のなきがらをただそのままにして、成り果てるさまをみることができればよいがと思うけれども、それも限りあることなので、四日の夜神楽岡(かぐらおか)という山へ野辺送りをした。むなしい火葬の煙といっしょに私も行ける道ならばと、思ってもかいもなく流れる袖の涙ばかりを、父の形見として帰ってきた。主のいないむなしい跡をみるにつけても、夢でなくては会うこともできないと悲しく、昨日の父の面影が恋しい。いまはとて私を戒められた言葉まで、くりかえし思い出され、なんとも言い尽す言葉もない。

わが袖の涙の海よ三瀬川に流れてかよへ影をだに見ん

(私の袖の涙の海よ、三途の川に流れかよってくれ。川に映る父の影をなりと見られるだろうから)


神楽岡は左京区の吉田山のこと。







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