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『とはずがたり』巻1.傅仲綱・継母ら出家、弔問





原文(『講談社学術文庫.とはずがたり(上)全訳注』p125)


 五日夕がた、仲綱こき墨染(すみぞめ)の袂(たもと)になりて参りたるをみるにも、大臣(だいじん)の位にゐ給はば、四品(しほん)の家司(けいし)などにてあるべき心地をこそ思ひつるに、思はずにただいまかかる袂をみるべくとはと、いとかなしきに、「御墓へ参り侍(はべ)る。御ことづけや」といひて、彼も墨染の袂、乾くところなきを見て、涙おとさぬ人なし。

 九日ははじめの七日に、北の方(かた)、女房二人、侍(さぶらひ)二人出家し侍りぬ。八坂の聖(ひじり)をよびつつ、「流転三界中」とて剃りすてられしを見る心地、うらやましさを添へて、あはれもいはん方なし。同じ道にとのみ思へども、かかる折ふしなれば、思ひよるべきことならねば、かひなきねのみ泣きゐたるに、三七日をばことさらとり営みしに、御所よりも、まことしくさまざまの御とぶらひどもあり。

 御使は一二日にへだてず承るにも、見給はましかばとのみかなしきに、京極(きやうごく)の女院(にようゐん)と申すは、実雄(さねを)の大臣(おとど)の御女(むすめ)、当代のきさき、皇后宮とて御おぼえも人には殊にて、春宮(とうぐう)の御母にておはしますうへは、御身柄といひ御年といひ、惜しかるべき人なりしに、常は物怪(もののけ)にわづらひ給へば、またこのたびもさにやなど、みな思ひたるに、はや御こときれぬといひ騒ぐを聞くにも、大臣の嘆き、内の御おもひ、身に知られていとかなし。

 五七日にもなりぬれば、水晶の数珠子(ずずこ)、女郎花(をみなへし)の打枝につけて、諷誦(ふじゆ)にとて賜ふ。同じ札(ふだ)に、

  さらでだに秋は露けき袖のうへに昔をこふる涙そふらん

かやうの文(ふみ)をも、いかにせんともてなし喜ばれしに、「苔(こけ)の下にもさこそと、置きどころなくこそ」とて、

  思へたださらでもぬるる袖のうへにかかるわかれの秋の白露

ころしも秋の長き寝ざめは、物ごとに悲しからずといふことなきに、千万(ばん)声のきぬたの音を聞くにも、袖にくだくる涙の露を片敷きて、むなしき面影をのみしたふ。露消えにしあしたは、御所御所の御使よりはじめ、雲の上人(うへびと)おしなべて、たづね来ぬ人もなく、使をおこせぬ人なかりしなかに、基具(もととも)の大納言ひとりおとづれざりしも、世の常ならぬことなり。



次田香澄氏の現代語訳

私の立場からの補足

 五日の夕方、仲綱が濃い墨染(すみぞめ)の衣の姿にあらためて参ったのをみるにつけても、父が大臣の位になっていらっしゃったならば、仲綱は四位(しい)の執事(しつじ)などになるはずと、みな思っていたのに、思いがけずただいまこういう出家の姿を見ようとはと、まことに悲しい。「お墓へまいります。何かおことづけでも」といって、彼も墨染の袂(たもと)が乾くところもないほどであるのを見て、涙を落さない人はなかった。

仲綱は久我家の家司。家司についてはこちら(風巻景次郎氏「家司兼好の社会圏」)。
 九日は初(しょ)七日にあたり、北の方(継母)と二人の女房、それに侍(さぶらい)が二人出家してしまった。八坂の寺の聖を招いて、「流転三界中」とて髪を剃って落されたのをみる心地は、うらやましさをそえて、哀しさも言い表わしようがない。私も同じ仏の道にとしきりに思うけれども、こういう身なので思い寄るわけにはいかないから、いたし方もなく、声をたてて泣くばかりであった。三七(さんしち)日の法事をとくに盛大にとり営んだところ、御所からもお心のこもったさまざまの御弔問があった。





「かかる折ふしなれば」(こういう身なので)とは後深草院の皇子を妊娠中であること。1272年の時点で二条は15歳、これが最初の妊娠である。
 御使いは、一日二日と間を隔てず頂戴するにつけても、父が見ておられたらと悲しかった。京極の女院と申す方は、(洞院)実雄の大臣(おとど)の御むすめで、今の帝(亀山院)の后、皇后宮として帝の御寵愛も他の方々とは異なり、東宮(後宇多院)の御母君でいらっしゃるからには、御身分柄といい、御年といい惜しい方であったのに、いつも物怪(もののけ)にお悩みであったので、今度わずらわれたのもまたそうであろうかと、だれも思っていたところ、はやお亡くなりになられたと言いさわぐのを聞くにつけても、父大臣の嘆きや帝の御思いが、おりからのわが身に知られてまことに悲しかった。

源雅忠(1228〜1272.45歳)

京極院(1245〜1272.28歳)が亡くなったのは8月9日。雅忠は8月3日に死んでいるので、その6日後のことである。京極院の一歳下の妹は玄輝門院(東の御方.伏見天皇の母)であり、洞院実雄(1219〜1273.55歳)は、閨閥の点では本家の西園寺家を圧倒していた。
 五七(ごしち)日にもなると、院より、水晶の数珠子をおみなえしの打ち枝につけて、諷誦(ふじゅ)の供物(くもつ)にとて賜わった。同しおみなえし色の札に、

さらでだに秋は露けき袖のうへに昔をこふる涙そふらん

(そうでなくても、秋は露がおいて湿りがちである袖が、さらに亡き父を慕う涙をそえていっそう濡れていることだろう)

とある。このようなお手紙をいただいても、父は御使いに何をしてさし上げようと、御使いをもてなし喜ばれたものであるが、私は、「墓の下でもさぞかし身に余る気持で喜んでおりましょう。感謝の言葉もございません」と御返事を書いて、

思へたださらでもぬるる袖のうへにかかるわかれの秋の白露

(ただ御同情くださいまし。そうでなくても秋の白露で濡れる袖のうえに、このような父との別れの悲しさに涙がふりかかることです)

 ころはあたかも秋であるので、夜長(よなが)に寝ざめれば、ものごとに悲しくないものはないのに、千声万声の砧(きぬた)の音を聞くにつけても、袖にくだける涙の露を片敷き、亡き父の面影ばかりを懐しく思う。父が露と消えてしまった朝は、各御所からの御使いをはじめ、大宮人はいずれも弔問しない人なく使者をよこさない人もなかったなかに、(堀川の)基具(もととも)大納言がひとり訪れなかったのは尋常ならぬことであった。
この堀川基具(1232〜1297.66歳)に対する剥き出しの敵意は、『とはずがたり』全巻を通して、ここでただ一箇所、極めて唐突に出てくるだけであり、物語の流れから言えば奇妙な感じを受ける。



補論−堀川基具に対する敵意について


 二条の父雅忠より4歳年下で、雅忠とは何らかの対立関係にあったらしい堀川基具への言及部分について、次田香澄氏は次のように書かれている。

 終りの基具についての一言は、ごく短文ながら、痛烈な筆誅ともとれるものである。作者が作品中にわざわざ言及する事項には、かならず何らかの意味があり、これもその一例である。『つれづれ草』に、基具の過差(ぜいたく)を好み、常識にはずれた人格を思わせる一段がある(九九段)が、『つれづれ』の人物評には、『とはすがたり』と一致するものが他にも見出されるのであって、三三段の玄輝門院(東の御方)の聡明さ、一一八・二三一段の西園寺実兼(『とはすがたり』では実兼および雪の曙)の故実に詳しいことと、平衡感覚、一八二段の四条隆親の強引さなどがそれである。

 次田香澄氏が言われるように、『とはずがたり』と『徒然草』の登場人物に重複が目立つのは確かであるが、私には『とはずがたり』と『徒然草』の人物評が一致しているとは思えない。特に、堀川家の家司であった過去を持ち、『徒然草』及び『兼好法師自撰歌集』の至る所で、堀川家への親密な感情を表現している兼好が、太政大臣という名誉ある地位にまで昇った、いわば堀川家の誇りである基具を非難するのは極めて不自然である。
 私は『徒然草』第99段が、「過差(ぜいたく)を好み、常識にはずれた人格を思わせる」ものとして堀川基具を非難しているとの従来の通説(定説?)に疑問を抱いているが、この点については別途検討したい。





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