10.9/17


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『とはずがたり』巻1.前斎宮帰京、院大宮院に作者を語る







原文(『講談社学術文庫.とはずがたり(上)全訳注』p212)


 まことや、斎宮(さいぐう)は後嵯峨院の姫宮にてものし給ひしが、御服(ぶく)にており給ひながら、なほ御いとまを許され奉り給はで、伊勢に三年(とせ)まで御わたりありしが、この秋のころにや、御上(のぼ)りありしのちは、仁和寺(にわじ)に衣笠(きぬがさ)といふわたりに住み給ひしかば、故大納言さるぺきゆかりおはしまししほどに、仕うまつりつつ、御裳濯(みもすそ)川の御下(くだ)りをも、殊に取沙汰(さた)し参らせなどせしもなつかしく、人めまれなる御住まひも、何となくあはれなるやうに覚えさせおはしまして、つねに参りて、御つれづれも慰め奉りなどせしほどに、十一月(しもつき)の十日あまりにや、大宮院に御対面のために嵯峨へ入(い)らせ給ふべきに、「われひとりはあまりにあいなく侍(はべ)るべきに、御わたりあれかし」と、東二条へ申されたりしかば、御政務のこと、御立ちのひしめきのころは、女院(にようゐん)の御方(かた)さまも、うちとけ申さるることもなかりしを、このごろは、つねに申させおはしましなどするに、またとかく申されんもとて、入(い)らせ給ふに、「あの御方さまも御入り立ちなれば」とて 、一人御車のしりに参る。

 枯野の三つ衣(ぎぬ)に、紅梅の薄衣(うすぎぬ)を重ぬ。春宮に立たせ給ひてのちは、みな唐衣(からぎぬ)を重ねしほどに、赤色の唐衣をぞ重ねて侍りし。台所もわたされず、ただひとり参り侍り。

 女院の御方(かた)へ入(い)らせおはしまして、のどかに御物語ありしついでに、「あのあかこが幼くより、生(お)ほし立てて候ふほどに、さるかたに、宮仕ひもものなれたるさまなるにつきて、具(ぐ)しありき侍るに、あらぬさまにとりなして、女院の御方(かた)さまにも、御簡(みふだ)削られなどして侍れども、われさへ捨つべきやうもなく、故典侍大(すけだい)と申し、雅忠と申し、志ふかく候ひしかたみにもなど、申しおきしほどに」など申されしかば、「まことにいかが御覧じはなち候(さぶら)ふべき。宮仕ひはまた、しなれたる人こそしばしも候(さぶら)はぬは、たよりなきことにてこそ」など申させ給ひて、「何ごとも心おかず、われにこそ」など情あるさまに承るも、いつまで草のとのみおぼゆ。

 今宵(こよひ)はのどかに御物語などありて、供御(くご)も女院の御方にて参りて、更けて御やすみあるべしとて、かかりの御壺(つぼ)の方(かた)に入(い)らせおはしましたれども、人もなし。西園寺(さいをんじ)の大納言、善勝寺の大納言、長輔(ながすけ)・為方・兼行(かねゆき)・資行(すけゆき)などぞ侍りける。



次田香澄氏の現代語訳
私の立場からの補足

 ところで、斎宮は後嵯峨院の姫宮でいらっしゃったが、後嵯峨院の御服喪(ふくも)で斎宮をお退(さが)りになったものの、なお御暇をお許されにならないで、伊勢に三年まで御滞在であったが、この年の秋のころであろうか、御上京になった後は、仁和寺は衣笠という辺りにお住みだった。

 この斎宮は父大納言に然るべき縁がおありだったので、大納言がしばしば御奉仕して、斎宮として伊勢へ御下向(げこう)のときも、とくにお世話申しあげたりしたことも懐しく、人の出入りもまれな御住居も、なんとなくお気の毒なように存じあげて、つねに参って御つれづれを御慰めなどしていた。


斎宮※子(がいし)内親王(1249〜1284.36歳.※りっしんべんに「豈」。)「鎌倉時代の斎宮。後嵯峨天皇皇女。母は大炊助藤原俊盛女。弘長2年(1262)12月、斎宮に卜定され、翌3年9月、野宮に入った。文永元年(1264)9月、御禊群行。同4年6月、三宮に准ぜられた。文永9年2月、後嵯峨上皇の崩御にともなって退下。弘安7年(1284)2月15日、三十六歳で薨じる。」(『鎌倉・室町人名事典』小斎桂子氏)
後嵯峨院(1220〜1272.53歳)
 そのうち十一月十日過ぎであったか、斎宮が大宮院に御対面のため嵯峨の御所へおいでになる際に、大宮院から院ヘ、
「私一人ではあまりにお愛想がありますまいから、おいでなさるように」
と申された。

 後嵯峨院の崩御後の御政務のことや、春宮決定までの騒ぎのころは、大宮院も院に対して打ち解け申されることがなかったが、近ごろは大宮院からたびたび親しくお申越しがあったりするので、このたびまた院がとかく申しあげてもよくなかろうというわけで、お出掛けになることとなった。

『増鏡』では10月の出来事としている。

大宮院(1225〜1292.68歳)
後深草院(1243〜1304.62歳)


春宮とは煕仁親王(伏見天皇)のこと。史実としては1275年11月に春宮となったのであるが、『とはずがたり』では1274年のことのように書かれている。この種の年立ての混乱について、国文学者は「その食い違いは、作者の錯覚や虚構・朧化によるところが多いと考えられる。」(福田秀一氏『新潮日本古典集成.とはずがたり』巻末年表凡例)などと言っているのであるが、私はそもそも『とはずがたり』の年立てを厳密な年表を作って確定するような作業自体が空しいという立場である。

「私一人が院のお車に御奉仕した」、「私がただ一人お供申しあげた」と執拗に自分の存在をアピールしており、作者の自己顕示欲の強さが伺われる。
 「おまえはあちらの方(斎宮)へもお出入り申しあげている者だから」
とおっしゃられ、私一人が院のお車に御奉仕した。

 私は枯野(かれの)色の三枚重ねの衣(きぬ)に、紅梅の薄衣(うすぎぬ)を重ねて着た。院の若宮が東宮にお立ちになって後は、御所ではみな正式の唐衣(からぎぬ)を上に着たので、私も赤色の唐衣を重ねていた。台盤所(だいばんどころ)の女房もお連れにならず、私がただ一人お供申しあげた。

 大宮院の御所へお着きになって、のどかに女院と御物語があった、そのついでに院は申された。
「あのあかこは幼い時から私が養い育てましたので、それ相当に宮仕えも物慣れているようですので、連れて歩いておりますと、それを違ったように取られまして、東二条院の方でも出入りを差し止められなどしましたけれども、私までがあの子を見捨てる理由もなく、あの子の母の典侍大(すけだい)といい、父雅忠といい、私に忠勤を励んでくれましたその形見としても、あの子のめんどうを見ていただきたいと遺言して、世を去りましたので」
など仰せられたので、(大宮院も)

「ほんとうに、どうしてお見放しになってよろしゅうございましょう。宮仕えはまた、し慣れた人がしばらくでもおりませんと、たよりないものですよ」とおっしゃられて、(私へも)「何ごとも心おきなくわたしに相談なさい」とお情け深い様子にお言葉があるにつけても、このような御好意も、ほんとうにいつまで続くことやらと思う。





この場面の直前の段で、態度のでかい二条が東二条院(1232〜1304.73歳)の御所への出入りを禁止されたことが書かれている。


33歳年上の大宮院が親切な言葉をかけてくれたのに対し、「いつまで続くことやら」と冷ややかに受け取る17歳の二条である。これだけ性格が悪ければ、東二条院が実際に出入りを差し止めたとしても、至極もっともなことのように思われる。
 今宵(こよい)はのどかに物語などなさって、院はお食事も大宮院の方で召し上がって、夜が更けたのでお寝(やす)みになろうとて、蹴鞠(けまり)の庭に面したお部屋の方へおいでになったが、ごく人少なであった。西園寺の大納言(実兼)・善勝寺の大納言(隆顕)・長輔(ながすけ)・為方(ためかた)・兼行(かねゆき)・資行(すけゆき)などが御奉仕していた。





西園寺実兼(1249〜1322.74歳)
四条隆顕(1243〜?)
持明院長輔(1257〜?)
中御門為方(1255〜1306.52歳)
楊梅兼行(1254〜?)
山科資行(?〜?)
なお、中御門為方は中御門経任の息子であるが、『とはずがたり』・『増鏡』いずれにおいても、特に悪意のある書き方はされていない。







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