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『とはずがたり』巻1.「東二条院作者を非難、院の弁護 」






原文(『とはずがたり(上)全訳注』p236)


 還御(くわんぎよ)の夕がた、女院(にようゐん)の御方(かた)より御使に中納言殿参らる。何ごとぞと聞けば、「二条殿が振舞のやう、心得ぬことのみ候(さぶら)ふときに、この御方の御祗候(しこう)をとどめて候ヘば、殊更もてなされて三つ衣(ぎぬ)を着て御車に参り候へば、人のみな女院の御同車と申し候ふなり。これせんなく覚え候。よろづ面目なきことのみ候へば、いとまを賜はりて、伏見などにひきこもりて、出家して候はんと思ひ候」といふ御使なり。

 御返事には、

「承り候(さうら)ひぬ。二条がこと、いまさら承るべきやうも候はず。故大納言典侍(すけ)、あかこのほど夜昼奉公し候へば、人よりすぐれてふびんに覚え候ひしかば、いかほどもと思ひしに、あへなくうせ候ひし形見には、いかにもと申しおき候ひしに、領掌(りやうじやう)申しき。故大納言、また最後に申す子細候ひき。君の君たるは臣下の志により、臣下の臣たることは、君の恩によることに候。最後終焉に申しおき候ひしを、快く領掌し候ひき。したがひて、後の世のさはりなく思ひおくよしを申して、まかり候ひぬ。再びかへらざるは言の葉に候。さだめて草のかげにても見候ふらん。何ごとの身のとがも候はで、いかが御所をも出(い)だし、行方も知らずも候ふべき。

 また三つ衣(ぎぬ)を着候ふこと、いま始めたることならず候。四歳の年、初参のをり、『わが身位あさく候。祖父(おほぢ)、久我太政(だいじやう)大臣が子にて参らせ候はん」と申して、五つ緒(を)の車数、袙(あこめ)・二重(ふたへ)織物許(ゆ)り候ひぬ。そのほかまた、大納言典侍(すけ)は、北山の入道(にふだう)太政大臣の猶子(いうし)とて候ひしかば、次いでこれも、准后(じゆごう)御猶子の儀にて、袴(はかま)を着そめ候ひしをり、腰を結(い)はせられ候ひしとき、いづ方(かた)につけても、薄衣(うすぎぬ)白き袴などは許すべしといふこと、ふり候ひぬ。車寄(くるまよせ)などまでも許(ゆ)り候ひて、年月になり候ふが、今更かやうに承り候、心得ず候。

 いふかひなき北面(ほくめん)の下臈(げらふ)ふぜいの者などに、ひとつなる振舞などばし候ふ、などいふ事の候ふやらん、さやうにも候はば、こまかに承り候ひて、はからひ沙汰(さた)し候べく候。さりといふとも、御所を出(い)だし、行方知らずなどは候ふまじければ、女官(にようくわん)ふぜいにても、召し使ひ候はんずるに候。

 大納言、二条といふ名を付きて候ひしを、返し参らせ候ひしことは、世隠れなく候。されば、呼ぶ人々さは呼ばせ候はず。『われ位あさく候ふゆゑに、祖父(おほぢ)が子にて参り候ひぬるうへは、小路(こうぢ)名を付くべきにあらず候』『詮(せん)じ候ふところ、ただしばしは、あかこにて候へかし。何さまにも大臣は定まれる位に候へば、そのをり一度に付け候はん』と申し候ひき。

 太政大臣の女(むすめ)にて、薄衣(うすぎぬ)は定まれることに候ふうへ、家々めんめんに、我も我もと申し候へども、花山(くわざん)・閑院(かんゐん)ともに淡海公(たんかいこう)の末より、次々また申すに及ばず候。久我(こが)は村上の前帝の御子、冷泉・円融の御弟、第七皇子具平(ともひら)親王よりこの方(かた)、家久しからず、されば今までも、かの家女子(をんなご)は宮仕ひなどは望まぬことにて候ふを、母奉公のものなりとて、その形見になどねんごろに申して、幼少の昔より召しおきて侍るなり。さだめてそのやうは御心得候ふらんとこそ覚え候ふに、今更なる仰せ言(ごと)、存(ぞん)の外(ほか)に候。御出家の事は、宿善内(うち)にもよほし、時至ることに候へば、何とよそよりはからひ申すによるまじきことに候」

とばかり御返事に申さる。そののちは、いとどこと悪(あ)しきやうなるもむつかしながら、ただ御一(ひと)ところの御志、なほざりならずさに慰めてぞ侍(はべ)る。



次田香澄氏による現代語訳

 お帰りになった夕方、東二条院から(院のところヘ)お使いとして女房の中納言殿が参られた。何ごとだろうと聞けば、「二条殿の振舞の様は、ふにおちないことばかりでございます。そこでこちらの方では、お出入りをさし止めておりますと、御所様には格別に待遇されて、三枚重ねの衣(きぬ)を着て、御所の御車に乗ったりいたしますので、人はみな私の御同車と申しているようでございます。これはなんとも不本意なことと存じます。すべて面目ないことばかりでございますから、私はお暇を頂戴し、伏見などにひきこもって、出家してしまいましょうと存じます」 というお使いである。

 院からの御返事には、

「承りました。二条のことは、今さらうかがう必要もありません。母、故大納言典侍が、あのあかこぐらいの年ごろ、夜昼奉公しましたので、人より以上にふびんに思っておりましたから、どれほどでも取り立ててやろうと思ったのに、あっけなく亡くなってしまいました形見として、どうかこの子に目をかけてやってください、と申し残しましたのを、承知したわけです。父、故大納言(雅忠)がまた最後に申した子細がありました。君が君として立ちますのは、臣下の奉公の志によるものであり、臣の臣たる所以は、君の恩によることであります。故大納言が臨終に申し残しましたことも、快く承知しました。したがって、これで往生の妨げがない、安心しましたと申して亡くなりました。一度口から出せばふたたび返らないのは、帝王の言葉であります。さだめし草葉の陰でも見ていることでしょう。何ごとも本人の身に過ちがないのに、どうして御所を出したり、行方も知れずにしたりしてよろしいでしょう。

 また三枚重ねの衣(きぬ)を着ますことは、今初めてのことではありません。四歳の年、初めて参ったおり、父が『私の身分は位が低うございます。祖父久我(こが)太政大臣の子として参らせましょう』と申して、五つ緒(お)の車の人数に加えられ、袙(あこめ)に二重(ふたえ)織物を着ることを許されました。そのほかまた大納言の典侍(すけ)は、北山の入道太政大臣の養子ということになっておりましたから、その関係でこの子も、北山の准后の御養子の名義で、袴(はかま)を着始めましたおりに、准后が袴の紐を結んでやられた際、どちらから言っても、薄衣(うすぎぬ)や白い袴などは許すということを披露したことです。車寄せに車を着けることなどまでも許して、長年になりますが、今さらこのように承りますことは納得のいかないことです。

 言うにたりない北面(ほくめん)の下臈(げろう)ふぜいの者などと同然の振舞、といったことでもございましたでしょうか。そのようなことでもありましたら、細かに承りまして、適当に処置しようと思います。さればといって、御所を出したり、行方も知れずにさせるなどいうことは、いたすべきではありませんから、女官(にょうかん)程度の地位に下げてでも、召使いましょうと思います。

 二条という女房名が付きましたのを、故大納言が返上申しあげたことは、世に隠れのないことです。だから二条と呼ぶ人々があっても、呼ばせません。『私自身の地位が低いゆえに、祖父の子として参りましたからには、小路(こうじ)名を付けるべきではございません』『つまるところ、ただしばらくは、あかこというままにしていなさい。なにぶんにも家として大臣の位は定まっていることなのだから、大臣になったおり、同時に名を付けましょう』と申したことです。

 太政大臣の娘として薄衣を着ることは決まっていることであるうえ、家々めいめいに、我も我もと申していますが、花山(かざん)・閑院(かんいん)ともに淡海公の子孫から出ており、その他は次々とまた申すまでもないことです。久我(こが)家は村上の先帝の御子で、冷泉(れいぜい)・円融院の御弟である第七皇子具平(ともひら)親王からこの方、皇室から出た家としてまだ日が浅く、したがって今までもかの家は女子は宮仕えなど望まないことでしたのを、母が奉公の者だったというので、その形見になどこちらから所望して、幼少の昔から召し置いているのです。さだめし、その事情は心得ていられるでしょうと思いましたのに、今さらな仰せ言(ごと)は意外であります。

 御出家のことについては、宿善が心内に催して、はじめて時機が到来するものでありますから、よそから取り計らい申すのによることではありません」

とばかり御返事に申された。その後はいよいよ何事もぐあいが悪いようで、煩わしいながら、ただ院お一人のお志が並々でないので、慰められてお仕えしていた。



☆「三つ衣」などの意味に関してはこちら。(岩佐美代子氏「『とはずがたり』における和歌と表現−衣をめぐる考察−」)
☆久我家の来歴についてはこちら。(橋本義彦氏「村上の源氏」)




「私の立場からの補足」は後日掲載します。

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