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『とはずがたり』巻1.「東二条院の御産の盛儀 」






原文(『とはずがたり(上)全訳注』p68)


 八月(はづき)にや、東二条院の御産、角(すみ)の御所にてあるべきにてあれば、御年も少したかくならせ給ひたるうへ、さきざきの御産もわづらはしき御ことなれば、みなきもをつぶして、大法秘法のこりなく行はる。七仏薬師(しちぶつやくし)、五壇の御修法(しゆほふ)、普賢(ふげん)延命、金剛童子(こんがうどうじ)、如法愛染(によほふあいぜん)王などぞきこえし。五壇の軍荼利(ぐんだり)の法は、尾張(をはり)の国にいつもつとむるに、このたびはことさら御志をそへてとて、金剛童子のことも大納言申し沙汰(さた)しき。御験者(げんじや)には常住院の僧正参らる。

 二十日あまりにや、その御気(け)おはしますとてひしめく。いまいまとて二三日過ぎさせおはしましぬれば、誰々も肝心をつぶしたるに、いかにとかや変る御気色(けしき)見ゆるとて、御所へ申したれば、入(い)らせおはしましたるに、いと弱げなる御けしきなれば、御験者ちかく召されて、御几帳(みきちやう)ばかりへだてたり。

 如法愛染の大阿闍梨(あじやり)にて、大御室(おむろ)御伺候(しこう)ありしを、近く入れ参らせて「かなふまじき御けしきに見えさせ給ふ。いかがし侍るべき」と申されしかば、「定業亦能転(ぢやうごふやくのうてん)は仏菩薩(ぼさつ)の誓ひなり。さらに御大事あるべからず」とて、御念誦(ねんじゆ)あるにうちそへて、御験者、証空が命にかはりける本尊にや、絵像の不動御前にかけて、「奉仕修行者猶薄伽梵(ぶじしゆぎやうじやゆによばかぼん)、一持秘密呪生々而加護(いつぢひみつじゆしやうしやうにかご)」とて、数珠(ずず)おしすりて、「我、幼少の昔は念誦の床(ゆか)に夜を明かし、長大の今は難行苦行に日を重ぬ。玄応擁護(げんおうおうご)の利益(りやく)空(むな)しからんや」と揉(も)み伏するに、すでにと見ゆる御けしきあるに力を得て、いとど煙(けぶり)もたつほどなる。

 女房たちの単襲(ひとへがさね)、生絹(すずし)の衣(きぬ)、めんめんにおし出(い)だせば、御産奉行(ぶぎやう)とりて殿上人(てんじやうびと)に賜(た)ぶ。上下の北面(ほくめん)、めんめんに御誦経(みずきやう)の僧に参る。階下には公卿(くぎやう)着座して、皇子御誕生を待つけしきなり。陰陽師(おんやうじ)は庭に八脚(やつあし)をたてて、千度(せんど)の御祓(はらへ)をつとむ。殿上人これをとりつぐ。女房たち袖口を出(い)だして、これをとりわたす。御随身(みずいじん)、北面の下臈(げらふ)神馬(じんめ)をひく。御拝ありて、二十一社へ引かせらる。人間に生(しやう)をうけて女の身を得るほどにては、かくてこそあらめとめでたくぞ見え給ひし。

 七仏薬師、大阿闍梨召されて、伴僧(ばんそう)三人声すぐれたるかぎりにて、薬師経を読ませらる。「見者歓喜(けんじやくわんぎ)」といふわたりを読むをり、御産なりぬ。まづ内外(うちと)「あなめでた」と申すほどに、うちへころばししこそ、本意(ほい)なく覚えさせおはしまししかども、御験者の禄(ろく)いしいしは常のことなり。




次田香澄氏による現代語訳

 八月であったか、東二条院の御産を角(すみ)の御所でなさることになったが、女院はお年も少し召していられるうえ、さきざきの御産も御難産であったことであるから、みなひどく心配して、大法秘法が残りなく行われる。七仏薬師(しちぶつやくし)や五大明王(みょうおう)の修法、普賢(ふげん)延命の修法、金剛童子(こんごうどうじ)、如法愛染(にょほうあいぜん)王の秘法などということであった。五壇の軍荼利(ぐんだり)夜叉(やしゃ)明王の法は、尾張の国の分担でいつも勤めるのであるが、このたびはとくに院のお志を添えてということで、金剛童子の法の事も、父大納言が承って手配した。御験者(げんじゃ)としては常住院の僧正が参上された。

 二十日過ぎであったか、御産の気(け)がおありだというので騒ぎ立った。いま、いまといっては二三日もそのままお過ぎになってしまったので、だれもかれもひどく心配していたところ、どういう風にか、いつもと変った御様子が見えるというので、院に申し上げると、さっそく女院の方へおいでになった。女院はたいそう弱られたような御様子なので、御験者を近く召され、女院との間には御几帳(きちょう)だけを隔ててある。

 如法愛染法(にょほうあいぜんほう)の大阿闍梨(あじゃり)として大御室(おむろ)が伺候(しこう)されたのを、院は近くお招き申されて、「もはや危い御有様に見えられます。どういたしましょう」と申されたところ、大御室は、「定業亦能転(じょうごうやくのうてん)は仏菩薩(ぼさつ)の誓いでございます。けっして万一の御事(おんこと)があるはずはございません」といって、経文(きょうもん)を誦(ず)されるのに加えて、御験者は、昔証空(しょうくう)の命に代った尊い本尊であろうか、絵像の不動明王を御前に掛け、「奉仕修行者猶薄伽梵(ぶじしゅぎょうじゃゆにょばかぼん)、一持秘密呪生々而加護(いつじひみつじゅしょうしょうにかご)」と唱えて数珠(じゅず)をおしすり、「私は幼少の昔には念仏誦経(ずきょう)の床(ゆか)に夜を明かし、成人の今は難行苦行に日を重ねております。玄応擁護の御利益(ごりやく)がむなしいことがありましょうか」と一心に祈り伏せるときに、もはや御産と見える御様子があるのに力を得て、いよいよ湯気も立ち上るほどにみな一心に祈る。

 女房たちの単襲(ひとえがさね)、生絹(すずし)の衣(きぬ)を簾(すだれ)のから女房たちがめいめいに押し出すと、御産奉行がそれを受取って殿上人(てんじょうびと)に賜わる。それを院の上下の北面(ほくめん)の武士がめいめいに御誦経(みずきょう)の僧にさし上げる。階の下には公卿が着座して、皇子の御誕生を待つ様子である。陰陽師(おんようじ)は庭に八脚の机を立てて、千度(せんど)の祓(はら)えを勤める。殿上人が御祓え物を取次ぐ。女房たちが袖口を簾から出して、次々にこれを受取る。御随身(みずいじん)や北面の下臈(げろう)が神馬(じんめ)を引いてくる。後深草院の御拝があって後、二十一社へこれを献納させられる。 ─ 人間として生まれて、女の身をうけるほどならば、こんな(盛大な取扱いを受ける身)でありたいものと、ほんとうにすばらしくお見えになったことだった。

 院は七仏薬師の大阿闍梨(あじゃり)を召され、伴僧三人、とくに声のすぐれた者を選んで、「薬師経」を読ませられた。「見者歓喜(けんじゃかんぎ)」という辺りを読む折、御産があった。まず、御所の内外の者は、「ああおめでたい」と申し合ったが、そのうち甑(こしき)を北へ転がしたのは(皇子誕生を期待しておられたのに)残念なことにみなお思い申しあげた。しかし御験者の禄を次々におやりになったことは、いつものとおりである。



※ここで誕生した姫宮が後の遊義門院(1270〜1307.38歳)である。この部分も『増鏡』に大幅に「引用」されている(→こちら)。
 なお、遊義門院誕生は史実では1270年9月のことであるが、『とはずがたり』および『増鏡』では後嵯峨院崩御の前年、つまり1271年8月のこととされている。
 次田香澄も「解説」で、「この作品には種々の虚構がある。主として時間的な改変をしているのであるが、そうした虚構で著しいものの一つが、この院の正妃東二条院の御産である。これは前年同月(ママ)のことであったというのが、諸記録によって事実とみられるから、作者はこの作品全篇の構想上、この時点に置く必要を感じてとった措置とするほか考えられない。その意味については二点考えられる。一つは、主要人物としてこの作品の最後に登場し、作者がそれに邂逅した院の遺女遊義門院(後宇多院皇后)について、その誕生を語っておきたかったこと。いま一つは、やがて作者が院との間に皇子を生む、その時との身分の相違を読者に対比してもらおうとしたことであろう。東二条院処生の子女のうち、成人したのはこの姫宮だけであった。」と書かれている。
 基本的な立場は異なるが、『とはずがたり』に限れば、私も次田香澄氏の見解に概ね賛成である。





「私の立場からの補足」は後日掲載します。


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