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『とはずがたり』巻1.「御所の人魂の怪異 」






原文(『とはずがたり(上)全訳注』p75)


 このたびは姫宮にてはわたらせ給へども、法皇ことにもてなし参らせて、五夜七夜 など殊に侍(はべ)りしに、七夜の夜事どもはてて、院の御方の常の御所にて御物語あるに、 丑(うし)の時ばかりに、橘(たちばな)の御壺(つぼ)に、大風の吹くをりに荒き磯(いそ)に波のたつやうなる音おびたたしくするを、「何ごとぞ、見よ」と仰せあり。

 見れば、頭(かしら)はかいといふもののせいにて、次第に杯(さかづき)ほど、すつきほどなるものの青めに白きが、つづきて十ばかりして、尾は細長にて、おびたたしく光りて飛びあがり飛びあがりする。「あなかなし」として逃げ入(い)る。廂(ひさし)に候(さぶら)ふ公卿(くぎやう)たち、「なにか見騒ぐ、人魂(だま)なり」といふ。「大柳の下に、布海苔(ふのり)といふものをときて、うち散らしたるやうなるものあり」などののしる。

 やがて御占(うら)あり。法皇の御方の御魂(たま)のよし奏し申す。今宵(こよひ)よりやがて招魂(せいこ)の御祭、泰山府君(だいざんぶく)など祭らる。



次田香澄氏による現代語訳

私の立場からの補足

 このたびお生まれになったのは姫宮でいらっしゃるが、法皇(後嵯峨院)は格別の御待遇をなされて、御五夜・御七夜の御祝などとくに盛大だったが、御七夜の夜祝宴が終って、院(後深草院)の御方の常の御殿で御物語をなさっていると、午前二時ごろに、橘(たちばな)の木のある御中庭に、大風が吹くときに荒い磯に波が立つような音がひどくするのを、「何ごとだ、見なさい」と女たちに仰せになる。

 見ると、頭はかい(匙)というものの大きさで、次第に杯ほど、酢坏(すつき)ほどの大きさの青っぽく白いのが、続いて十ばかり、尾は細長で、おびただしく光って飛び上がり飛び上がりしている。 「おおこわい」といってみんな逃げ込んだ。廂(ひさし)の間(ま)にいた公卿たちが(出ていって)、「何を見て騒ぐのです。あれは人魂ですよ」という。 「大柳の下に布海苔(ふのり)という物をといて、まき散らしたような物があります」 などと大声でいうものがある。

 すぐに御占(うら)が行われた。その結果、法皇さまの御魂(たま)が抜け出したのです、と奉答した。そこでさっそく今宵(こよい)から法皇さまのために招魂の御祭があり、泰山府君(たいざんぶく)などを祭られた。

姫宮は遊義門院(1270〜1307.38歳)のこと。史実としては1270年9月18日に生まれているのであるが、『とはずがたり』では後嵯峨院崩御の前年、つまり1271年8月のこととして記述されている。そして誕生七日目のお祝いが終わった後に後嵯峨院の人魂が出て、「九月のころにや、法皇御悩みといふ。」と後嵯峨院の病気の話になり、さらに翌1272年2月の崩御に続いているのである。なお、当時、人魂の出現は死の前兆と考えられていた。

後嵯峨院(1220〜1272.53歳)についてはこちら。(水戸部正男氏『歴代天皇紀』)

泰山府君(たいざんふくん)「中国で泰山の山神。人の寿命・福禄を司るとして道家で祀る。仏教と習合して本地は地蔵菩薩といい、日本では比叡山の西坂本に赤山(しゃくざん)権現として祀られ、素戔嗚尊に付会することがある。」(『広辞苑』)





人魂出現の話について



 次田香澄氏は「解説」で、「この段を設定した意味は、後嵯峨法皇の死去の前表としての人魂の出現であり、次の段に接続するが、人魂の現象をすこぶるリアルに描出して、その方面の貴重な資料を提供してくれている。「かい」「さかづき」「すつき」は、人魂の大きさを順に表わすために、いずれも日常食膳に出る食器の類で示したものであろう。青白く光り、尾が細長いなどは、人魂についてよくいわれたり絵に見るとおりである。一方、荒磯にくだける波のような音がするとか、ひどく光って飛び上がり飛び上がりするとか残骸がふのりを溶いて散らしたようであるとかは、とくに怪奇で珍しい描写であるが、その他は丑の刻であるとか、一陣の風とか柳の木の下とか、あたかも語り伝えられる怪談の舞台効果と一致し、架空の話かと思わせるほどだが、事実のままだったのだろう。」 と言われているが、少なくともこの時点までは、後深草院二条は「大風の吹くをりに荒き磯に波のたつやうなる音」を実際に聞いた経験はないのであるから、大幅な脚色がなされていることは明らかであって、「事実のままだった」はずがないと私は考える。

 また、水原一氏は「『とはずがたり』の虚構性をめぐって」において、「後嵯峨院発病の契機となった橘の壺の人魂も虚構とはいえない。古樹の柳に燐火・菌糸光の現象は例のある事で、その跡には白い粘液が見られるという。まさに、「大柳下に布海苔(ふのり)といふものを溶きて、うち散らしたるやうなるもの」に当たるが、ただしそれが後嵯峨院の魂であるとする点は古代の解釈である。」とし、更に注記して「神田左京『不知火・人魂・狐火』(昭6・7)など参照。」とするなど、ずいぶん奥深い研究をされているのであるが、そういう深遠な研究をされる前に検討すべきことがあるように思われる。

 すなわち、まず最初に検討すべきなのは作者後深草院二条の性格である。後深草院二条は物語りの構想上の必要があれば、たとえ皇女遊義門院の誕生が1270年9月のことであったとしても、それを後嵯峨院崩御の前年の1271年8月のことと書くことをためらわないような人間なのである。

 とすれば、この部分が「一陣の風とか柳の木の下とか、あたかも語り伝えられる怪談の舞台効果と一致し、架空の話かと思わせるほど」である以上、ごく素直に考えて、これは事実の記録ではなく、仮に何らかの事件があったととしても、それは単なる素材に過ぎず、基本的にはこの人魂話は後深草院二条が創作した怪談であり、「架空の話」と捉えるべきではなかろうか。鎌倉時代の人が怪談を作ったと考えて、何か不都合があるのだろうか。


※後深草院二条の性格についての私の考え方は、阿部泰郎氏『「とはずがたり」の王権と仏法』や久保田淳氏「『とはずがたり』−配所の仮託」)などの批判的検討を行った際にも、多少異なった観点から書いた。






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