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『とはずがたり』巻2.「有明から文、作者応ぜず」







原文(『とはずがたり(上)全訳注』p320)


 さても、有明の月の御もとより、思ひかけぬ祗候(しこう)の稚児(ちご)のゆかりを尋ねて、御文(おんふみ)あり。思はずにまことしき御志さへあれば、なかなかむつかしき心地して、御文にてはときどき申せども、みづからの御ついではかき絶えたるも、いぶせからずと思はぬとしもなくて、また年も返りぬ。

 新院・本院御花合せの勝負といふことありて、知らぬ山の奥まで尋ね求めなど、この春はいとま惜しきほどなれば、うち隠ろへたる忍びごとどももかなはで、おぼつかなさをのみ書きつくす。今年は御所にのみつと候(さぶら)ひて、秋にもなりぬ。




次田香澄氏による現代語訳

 それはそうとして、有明の月(阿闍梨)の御もとから、思いがけないおそばづきの稚児(ちご)の縁故をたずねて、私にお手紙があった。意外にも御本気なお志と思われるので、かえって煩わしい心地がして、手紙ではときどき御返事申したが、直接お目にかかる機会はすっかり絶えたのも、ちょっと物たりないような気がしないでもなくて、そのうち年もあらたまった。

 この春は新院(亀山院)と本院(後深草院)とで御花合せの勝負ということがあり、知らない山の奥まで花を探し求めなどして暇も惜しいほどなので、雪の曙(実兼)などとの隠れての逢瀬などもできないで、彼へおぼつかない気持ばかりをしきりに書いて送る。今年は御所にばかりずっと伺候して、はや秋になってしまった。




※「年も返へりぬ。」で建治二年(1276)になったと考えられている。1258年生まれの作者は19歳。(『とはずがたり』の建治年間頃の記述は、史実との整合性に疑問が多く、国文学者の間ではいろいろ議論がなされているが、私はそもそも『とはずがたり』の厳密な年立てを考えても仕方ない、という立場である。この点についての私の考え方はこちら。)





「私の立場からの補足」は後日掲載します。


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