up11.12/16
| 原文(『とはずがたり(上)全訳注』p328以下) そののちとかく仰せらるれども、御返事も申さず。まして参らんこと、思ひよるべきことならず。とにかくに言ひなして、つひに見参(げざん)に入らぬに、暮れゆく歳に驚きてにや、文(ふみ)あり。善勝寺の文に、
文(ふみ)をみれば、立文(たてぶみ)こはごはしげに、続飯(そくひ)にて上下につけ書かれたり。あけたれば、熊野の、またいづくのやらん、本寺のとかや、牛王(ごわう)といふものの裏に、まづ日本国六十箇神仏、梵天王(ぼんてんわう)・帝釈(たいしやく)よりはじめ、書きつくし給ひて後、
春はいつしか御参りあることなれば、入らせ給ひたるに、九献(くこん)参る。ことさら外(と)ざまなる人もなく、しめやかなる御ことどもにて、例の常の御所にての御ことどもなれば、逃げ隠れ参らすべきやうもなくて、御前(まへ)に候(さぶら)ふに、御所「御酌(しやく)に参れ」と仰せありしに参るとて、立ちざまに鼻血垂りて、目もくらくなりなどせしほどに、御前を立ちぬ。そののち十日ばかり、如法(によほふ)大事に病みて侍りしも、いかなりけることぞと、恐ろしくぞ侍りし。 |
| 次田香澄氏による現代語訳 |
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その後、いろいろとおっしゃるけれども、御返事も申しあげない。ましてこちらから伺う ようなことは思いもよることではない。あれやこれやと言いこしらえて、とうとうお目にかからずにいたところ、年の暮れゆくのに驚いてか手紙があった。みると、善勝寺(隆顕)の手紙に、
有明の手紙は、立て文(ぶみ)で、がんじょうに糊(のり)で上下に厳封して書かれている。開いてみると、熊野権現のであろうか、それともどこのであろうか、本寺のものだとか、牛王(ごおう)というものの裏に、まず日本国の六十ヵ国の神社と仏の名、梵天王・帝釈天を初めとして、ことごとくお書きになって、その後に、
新春には、有明は早々に院参される例になっているので、今年もおいでになられたところお酒をもてなされる。格別うとい人もなく、うちわの御席であるし、いつもの院の御居間でのことであるので、逃げ隠れ申しあげようもなく、御前に控えていると、院が「お酌(しゃく)を申しあげなさい」と仰せになる。お酌に参ろうとして、立ち上がりざまに鼻血が出て、目の前が急に暗くなりなどしたので御前を下がった。その後十日ばかり、たいそうひどく病んで寝込んでいたのも、どうしたことかと恐ろしいことではあった。 |
| ※河合隼雄氏との対談(「キャリアウーマンの自己主張」(『物語をものがたる−河合隼雄対談集』)で富岡多恵子氏は「それにしても、有明の月は、なぜ突如あんなに二条が好きになるんでしょうか、起請文なんか送ったり…。」と言われているが、『とはずがたり』の登場人物の中でも「有明の月」の奇妙さは傑出しており、やることなすこと全て変である。 ここでも突然ブキミな「起請文」を送ってきたりして訳が分からないのであるが、「有明の月」の悲劇的な「純愛」を好意的に捉える人も多い。上記対談でも、富岡多恵子氏は「すごい迫力ですね。あれだけ強引にいい寄られたら、女性にとっては、やっぱりもっとも印象に残るでしょう。」「だから私も有明の月にはいちばん感動します。」などと言われているのである。 しかし、直前の段(出雲路で「有明の月」に逢って絶交を決意した場面)で「今宵が最後と内心で誓っていたとは、誰が知ろう。鶏の声がせき立てるように聞えるのも、−相手の人はありたけの悲痛な言葉を尽くしていわれるけれども−私の心にはうれしいとは無情なことだった。」などと冷酷に他人を観察する後深草院二条が「純愛」を好意的に捉えるタイプだったとは私にはとうてい思えない。 『とはずがたり』の作者は、読者がどのような反応をするかを予測して、極めて緻密にこの作品を構成しているのは明らかであって、もしかしたら「有明の月」シリーズは、作者が「バカは悲劇が好きだから」とか何とか内心で思いながら、「そんなことを内心で私が思っているとは、誰が知ろう。」と読者を舐め切った態度で創作している話なのではないかと私は疑っている。 |
☆「私の立場からの補足」は後日掲載します。