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『とはずがたり』巻2.「有明から起請文、御所での出逢い 」







原文(『とはずがたり(上)全訳注』p328以下)


 そののちとかく仰せらるれども、御返事も申さず。まして参らんこと、思ひよるべきことならず。とにかくに言ひなして、つひに見参(げざん)に入らぬに、暮れゆく歳に驚きてにや、文(ふみ)あり。善勝寺の文に、

「御文参らす。このやうかへすがへす詮(せん)なくこそ候ヘ。いとあながちに厭(いと)ひ申さるることにても候はず、しかるべき御契りにてこそ、かくまでも思(おぼ)し召ししみ候ひけめに、情なく申され、かやうに苦々しくなりぬること、身一つの嘆きに覚え候。これへも同じさまには、かへすがへす恐れ覚え候」

よしこまごまとあり。

 文(ふみ)をみれば、立文(たてぶみ)こはごはしげに、続飯(そくひ)にて上下につけ書かれたり。あけたれば、熊野の、またいづくのやらん、本寺のとかや、牛王(ごわう)といふものの裏に、まづ日本国六十箇神仏、梵天王(ぼんてんわう)・帝釈(たいしやく)よりはじめ、書きつくし給ひて後、

「われ七歳よりして、勤求等覚(ごんくとうがく)の沙門(しやもん)の形を汚してよりこの方、炉壇(ろだん)に手を結びて、難行苦行の日を重ね、近くは天長地久を祈り奉り、遠くは一切衆生(いつさいしゆじやう)もろともに、滅罪生善(しやうぜん)を祈誓す。心のうち、定めて護法天童・諸明王、験(げん)垂れ給ふらんと思ひしに、いかなる魔縁にか、よしなきことゆゑ、今年二年、夜は夜もすがら面影を恋ひて涙に袖を濡らし、本尊に向かひ持経(ぢきやう)を開く折々も、まづ言(こと)の葉をしのび、護摩(ごま)の壇の上には文を置きて持経とし、御(み)あかしの光にはまづこれを開きて心を養ふ。

 この思ひ忍びがたきによりて、かの大納言にいひ合せば、見参(げざん)のたよりも心安くやなど思ふ。またさりとも同じ心なるらんと、思ひつることみな空(むな)し。このうへは、文をも遣はし言葉をも交さんと思ふこと、今生(こんじやう)にはこの思ひを断つ。さりながら、心の中に忘るることは、生々世々(しやうじやうせぜ)あべからざれば、我さだめて悪道(あくだう)に落つべし。さればこの恨み尽くる世あるべからず。両界の加行(けぎやう)よりこの方(かた)、灌頂(くわんぢやう)にいたるまで、一々の行法読誦(ぎやうぼふどくじゆ)大乗四威儀の行、一期(いちご)の間(あひだ)修(しゆ)するところ、みな三悪道に回向(えかう)す。このカをもちて、今生(こんじやう)長く空(むな)しくて、後生には悪趣に生(むま)れあはん。

 またもし生をうけてこの方、幼少の昔、襁褓(むつき)の中にありけんことは、覚えずして過ぎぬ。七歳にて髪を剃(そ)り、衣を染めてのち、一つ床(ゆか)にもゐ、もしは愛念(あいねん)の思ひなど、思ひ寄りたることなし。こののち、またあるべからず。我にもいふ言の葉は、なべて人にもやと思ふらんと思ひ、大納言が心中、かへすがへすくやしきなり」

と書きて、天照(てんせう)大神・正八幡宮、いしいしおびたたしく賜はりたるをみれば、身の毛もたち、心もわびしきほどなれど、さればとて何とかはせん。 これをみな巻き集めて、返し参らする包紙に、

今よりは絶えぬとみゆる水茎(みづくき)の跡をみるには袖ぞしほるる

とばかり書きて、同じさまに封じて、返し参らせたりしのちは、かき絶え御おとづれもなし。なにとまた申すべきことならねば、むなしく年も返りぬ。

 春はいつしか御参りあることなれば、入らせ給ひたるに、九献(くこん)参る。ことさら外(と)ざまなる人もなく、しめやかなる御ことどもにて、例の常の御所にての御ことどもなれば、逃げ隠れ参らすべきやうもなくて、御前(まへ)に候(さぶら)ふに、御所「御酌(しやく)に参れ」と仰せありしに参るとて、立ちざまに鼻血垂りて、目もくらくなりなどせしほどに、御前を立ちぬ。そののち十日ばかり、如法(によほふ)大事に病みて侍りしも、いかなりけることぞと、恐ろしくぞ侍りし。




次田香澄氏による現代語訳

 その後、いろいろとおっしゃるけれども、御返事も申しあげない。ましてこちらから伺う ようなことは思いもよることではない。あれやこれやと言いこしらえて、とうとうお目にかからずにいたところ、年の暮れゆくのに驚いてか手紙があった。みると、善勝寺(隆顕)の手紙に、

「お手紙をさし上げます。この次第はかえすがえす残念なことです。(このことは)あながちにあなたがお厭い申されることでもございませんでした。然るべき御因縁があってこそ、あの方はこれほどまで深く思い込まれたのでしょうに、あなたが無情に申され、このように苦苦しい仕儀になったことは、まったく私自身にも嘆かわしいことと思います。このお手紙に対してもまた同じように返事をされないとしたら、かえすがえす恐ろしいことと思います」

といったふうにこまごまとある。

 有明の手紙は、立て文(ぶみ)で、がんじょうに糊(のり)で上下に厳封して書かれている。開いてみると、熊野権現のであろうか、それともどこのであろうか、本寺のものだとか、牛王(ごおう)というものの裏に、まず日本国の六十ヵ国の神社と仏の名、梵天王・帝釈天を初めとして、ことごとくお書きになって、その後に、

 「自分は、七歳の時から出家して、分不相応ながら勤求等覚(ごんくとうがく)の僧侶の姿に連なって以来、炉壇に印(いん)を結んで難行苦行の日を重ね、近くは天長地久を祈り奉り、遠くは一切の衆生もろともに、滅罪生善(しょうぜん)を祈誓してきた。心の中に、きっと護法天童・諸明王が我が身には霊験を示されるであろうと思ったのに、どういう魔縁によるのか、よしない思いのため、今年で二年の間、夜は夜どおし、かの人の面影を慕って涙に袖を濡らし、本尊に向って持経を聞く折々にも、まずその人の言葉を思い出し、護摩の壇の上にはその人の文(ふみ)を置いて持経とし、御燈明の光にはまずこれを開いて心を慰める。

 この思いに堪えきれないため、かの大納言に相談すれば、対面の便宜もたやすく得られようかなど思った。またそれにしても大納言は自分と同じ心であろうと思ったが、みなむなしかった。このうえは、かの人に手紙をつかわしたり、言葉を交わそうと思うことは、この世ではいっさい断念する。しかしながら、心の中に忘れることは、来世もまたその来世もあり得ないから、自分はかならず悪道に堕ちるであろう。であるから、この恨みは尽きる時があるはずはない。金剛・胎蔵両界の加行(けぎょう)をはじめ灌頂(かんじょう)に至るまで一つ一つの行法(ぎょうぼう)、また読誦大乗四威儀(どくじゅだいじょうしいぎ)の行の、一生の間修めた功徳(くどく)をみな三悪道のために回向(えこう)する。この力によってこの世では絶えて仏果を得られず、来世には悪道に生まれ合うであろう。

 そもそも自分がこの世に生を受けて以来、幼少の昔、襁褓(むつき)の中にあったころのことは物心がなくて過ぎたが、七歳で髪を剃(そ)り墨染の衣を着けて後は、女性(にょしょう)と同じ床にいたり、あるいは愛欲に思いを寄せたことはない。今後もまたあるはずはない。それなのにかの人の自分に対して言った言葉は、すべて他の人にも言おうと思っているのだろうと思うと、(女の心変りが恨めしく、)大納言の心中がかえすがえす悔しいのである」

 こう書いて、天照大神・正八幡宮をはじめ、つぎつぎおびただしく列挙して書いてよこされたのを見ると、身の毛もよだち、胸も苦しくなるほどだが、さればといってどうすることができよう。 仕方なく、これをみな巻き集めて、お返しする包紙に、

今よりは絶えぬとみゆる水茎(みづくき)の跡をみるには袖ぞしほるる(これを最後に途絶えてしまうとみえるこのお手紙の御筆跡をみますと、私の袖も涙でしおれてしまうことです)

 とだけ書いて、初めと同じように封をしてお返し申した後は、絶えておとずれもない。こちらからまた、なんと申しあげるべきことでもないから、そのままでむなしく年も改まった。

 新春には、有明は早々に院参される例になっているので、今年もおいでになられたところお酒をもてなされる。格別うとい人もなく、うちわの御席であるし、いつもの院の御居間でのことであるので、逃げ隠れ申しあげようもなく、御前に控えていると、院が「お酌(しゃく)を申しあげなさい」と仰せになる。お酌に参ろうとして、立ち上がりざまに鼻血が出て、目の前が急に暗くなりなどしたので御前を下がった。その後十日ばかり、たいそうひどく病んで寝込んでいたのも、どうしたことかと恐ろしいことではあった。



※河合隼雄氏との対談(「キャリアウーマンの自己主張」(『物語をものがたる−河合隼雄対談集』)で富岡多恵子氏は「それにしても、有明の月は、なぜ突如あんなに二条が好きになるんでしょうか、起請文なんか送ったり…。」と言われているが、『とはずがたり』の登場人物の中でも「有明の月」の奇妙さは傑出しており、やることなすこと全て変である。
 ここでも突然ブキミな「起請文」を送ってきたりして訳が分からないのであるが、「有明の月」の悲劇的な「純愛」を好意的に捉える人も多い。上記対談でも、富岡多恵子氏は「すごい迫力ですね。あれだけ強引にいい寄られたら、女性にとっては、やっぱりもっとも印象に残るでしょう。」「だから私も有明の月にはいちばん感動します。」などと言われているのである。
 しかし、直前の段(出雲路で「有明の月」に逢って絶交を決意した場面)で「今宵が最後と内心で誓っていたとは、誰が知ろう。鶏の声がせき立てるように聞えるのも、−相手の人はありたけの悲痛な言葉を尽くしていわれるけれども−私の心にはうれしいとは無情なことだった。」などと冷酷に他人を観察する後深草院二条が「純愛」を好意的に捉えるタイプだったとは私にはとうてい思えない。
 『とはずがたり』の作者は、読者がどのような反応をするかを予測して、極めて緻密にこの作品を構成しているのは明らかであって、もしかしたら「有明の月」シリーズは、作者が「バカは悲劇が好きだから」とか何とか内心で思いながら、「そんなことを内心で私が思っているとは、誰が知ろう。」と読者を舐め切った態度で創作している話なのではないかと私は疑っている。





「私の立場からの補足」は後日掲載します。


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