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『とはずがたり』巻2.「院と亀山院小弓、負態に女房蹴鞠」






原文(『とはずがたり(上)全訳注』p337以下)


 かくて、二月(きさらぎ)のころにや、新院入らせおはしまして、ただ御さし向ひ、小弓(こゆみ)を遊ばし、「御負けあらば、御所の女房たちを上下みなみせ給へ。我負け参らせたらば、またそのやうに」といふことあり。この御所御負けあり。「これより申すべし」とて、還御(くわんぎよ)ののち、資李(すけすゑ)の大納言入道を召されて、「いかがこの式あるべき。めづらしき風情(ふぜい)何ごとありなん」など、仰せられ合はするに、「正月(しやうぐわつ)の儀式にて、台盤所(だいばんどころ)に並べ据ゑられたらんも、あまりに珍しからずや侍らん。また一人づつ、占相人(うらさうにん)などに会ふ人のやうにて出(い)でんも、異様(ことやう)にあるべし」など、公卿たちめんめんに申さるるに、御所、「龍頭鷁首(りようとうげきしゆ)の舟を造りて、水瓶(みづがめ)をもたせて、春待つ宿のかへしにてや」と御気色(きしよく)あるを、舟いしいしわづらはしとて、それも定まらず。

 資季入道、「上臈(じやうらふ)八人、小上臈・中上臈八人づつを、上中下の鞠足(まりあし)の童(わらは)になして、橘(たちばな)の御壺に木立てをして、鞠の景気をあらんや珍しからん」と申す。さるべしとみな人人申し定めて、めんめんに、上臈には公卿、小上臈には殿上人(てんじやうびと)、中臈には上北面(じやうほくめん)、傅(めのと)につきて出(い)だし立つ。水干袴(すいかんばかま)に刀さして、沓(くつ)・襪(したうづ)などはきて出(い)で立つべし、とてある、いとたへがたし。さらば夜などにてもなくて、昼のことなるべしとてあり。誰かわびざらん。されども力なきことにて、おのおの出で立つべし。

 西園寺(さいをんじ)の大納言、傅(めのと)につく。縹裏(はなだうら)の水干袴(すいかんばかま)に紅(くれなゐ)のうちき重(かさ)ぬ。左の袖に沈(ぢん)の岩をつけて、白き糸にして滝を落し、右に桜を結びてつけて、ひしと散らす。袴には岩・堰(ゐせき)などして、花をひしと散らす。「涙もよほす滝の音かな」の心なるべし。権大納言殿、資季入道沙汰(さた)す。萌黄(もよぎ)裏の水干袴には、左に西楼(せいろう)、右に桜。袴、左に竹結びてつけ、右に燈台一つつけたり。紅の単(ひとゑ)を重ぬ。めんめんにこの式なり。中の御所の広所を、屏風(びやうぶ)にて隔て分けて、二十四人出(い)で立つさま思ひ思ひにをかし。

 さて風流(ふりう)の鞠(まり)をつくりて、ただ新院の御前ばかりに置かんずるを、ことさら、かかりの上へあぐるよしをして、落つるところを袖に受けて、沓(くつ)を脱ぎて、新院の御前に置くべしとてありし、みな人、この上(あ)げ鞠を泣く泣く辞退申ししほどに、器量の人なりとて、女院の御方の新衛門督殿(しんゑもんのかみどの)を、上(かみ)八人に召し入れてつとめられたりし、これも時にとりては美々しかりしかとも申してん。さりながらうらやましからずぞ。袖に受けて御前に置くことは、その日の八人、上首(じやうしゆ)につきてつとめ侍りき。いと晴がましかしことどもなり。

 南庭の御簾(みす)あげて、両院・春宮(とうぐう)、階下に公卿(くぎやう)両方に着座す。殿上人はここかしこにたたずむ。塀の下を過ぎて南庭を渡るとき、みな傅(めのと)ども、色々の狩衣(かりぎぬ)にてかしづきに具(ぐ)す。新院「交名(けいみやう)を承らん」と申さる。御幸(ごかう)昼よりなりて、九献(くこん)もとく始まりて、「遅し、御鞠とくとく」と奉行(ぶぎやう)為方(ためかた)せむれども、いまいまと申して松明(しようめい)を取る。

 やがて、めんめんのかしづき、脂燭(しそく)を持ちて、「誰(たれ)がし、御達(ごたち)の局(つぼね)」と申して、ことさら御前へ向きて、袖かき合せて過ぎしほど、なかなか言の葉なく侍る。下八人より次第にかかりの下(した)へ参りて、めんめんの木のもとにゐる有様、われながら珍らかなりき。まして上下、男たちの興に入りしさまは、ことわりにや侍らん。御鞠を御前に置きて急ぎまかり出でんとせしを、しばし召しおかれて、その姿にて御酌(しやく)に参りたりし、いみじくたへがたかりしことなり。

 二三日かねてより局々に祗候(しこう)して、髪結(ゆ)ひ、水干(すいかん)・沓(くつ)など着ならはし候ふほど、傅(めのと)たち経営(けいめい)して、養ひ君もてなすとて、片よりに事どものありしさま、推しはかるべし。



次田香澄氏による現代語訳

 このようにして、二月のころであろうか、新院(亀山院)がこの御所へおいでになられて、院とお差向いで対面され、小弓の競技をなさって、「お負けになったら、御所の女房たちを上下を問わずみなお見せください。私が負け申したらばまたそのようにいたしましょう」といわれることがあった。こちらの院がお負けになる。

  「ではこちらのほうから御案内をいたしましょう」といわれて、新院のお帰りの後、院は資季(すけすえ)の大納言入道をお召しになり、「今度のやり方はどういうのがよかろう。珍しい趣向としてどんなことがあろうか」と御相談になった。

 「正月の儀式のように、女房を台盤所(だいばんどころ)に並べ据えられてもあまりに珍しさがございますまい。また、女房が一人ずつ人相見などに見てもらうようにして出てくるのも、おかしいでしょう」など、公卿たちがめいめいに申されるので、院が、「竜頭鷁首(りょうとうげきしゅ)の船を造って、女房たちに水瓶(みずがめ)を持たせ、『源氏物語』の春待つ宿の返しの趣向では」と御意向を出されると、「船の用意がいろいろめんどうでございます」とてそれも決まらない。

 資李入道が、「上臈八人、小上臈と中臈八人ずつを、上・中・下の鞠(まり)の服装の少年に仕立て、橘(たちばな)の木のある御中庭の四すみに蹴鞠の木を立てて、蹴鞠の様子をしたら珍しい見ものでしょう」と申しあげ、「それがよろしいでしょう」と一同の意見は一致した。

 女房めいめいに、上臈には公卿(くぎょう)が、小上臈には殿上人(てんじょうびと)が、中臈には上北面(じょうほくめん)が、それぞれ世話役に付いて、仕度をさせて出すことになる。水干袴(すいかんばかま)に刀をさして、沓や襪(したうず)などをはいて出場するようにということである。これはひどい。「それでは夜なんかではなくて、昼間の御計画にちがいない」ということで、だれが困らないものがあろう。しかし、いたしかたないことなので、それぞれ仕度をすることになった。

 私には西園寺の大納言(実兼)が世話役に付いた。裏地が薄藍色の水干袴(すいかんばかま)に紅(くれない)の袿(うちき)を重ねた。左の袖に沈香(じんこう)で作った岩を縫い付けて、白い糸で滝を落した風情をつくり、右の袖に桜の造花を結びつけて、花びらをいちめんに散らす。袴には岩・堰(いせき)などを付けて、花びらをいちめんに散らす。『源氏物語』の「涙もよほす滝の音かな」の心であろう。

 権大納言殿の服装は資李入道がめんどうをみる。裏地が萌黄(もえぎ)色の水干袴には左に西楼(せいろう)をあしらい、右に桜。袴の左側に竹の図柄を結んでつけ、右側に燈台を一つつけてある。紅の単(ひとえ)を重ねて着る。以下めいめいにこういった式である。中の御所の広問を屏風で隔て分けて、二十四人が装いを凝らしたさまは思い思いにおもしろい。

 さて美しく飾った鞠(まり)を作って、新院のすぐ御前の辺りに置くだけのつもりだったところ、とくに庭のかかりの木の上へ鞠を蹴上(けあ)げるしぐさをして、鞠が落ちるところを袖に受け、沓(くつ)を脱いで新院の御前に置きなさいという仰せであったが、女房一同この上(あ)げ鞠の役を泣き泣き辞退申しあげたので、そういうことのできそうな人だというので、東二条院の御方の女房、新衛門督殿(しんえもんのかみどの)をとくに上臈八人のなかに召し入れて、上げ鞠の役を勤められたことは、これも場合にとっては花やかに面目あることとも申すべきだろう。しかし、うらやましいことではない。鞠を袖に受けて御前に置くことは、その日の八人の上席だということで私が勤めた。なんとも晴れがましいことであった。

 南面の御殿の御簾(みす)をあげて、両院と東宮、階下には公卿が両側に着座している。殿上人(てんじょうびと)はあちらこちらにたたずんでいる。垣根の下を過ぎて南面の庭を渡るとき、みな世話役たちがいろいろの色の狩衣(かりぎぬ)で介添えに付いていく。新院が「女房方一同の呼び名をうけたまわりたい」と申される。新院は昼からおいでになり、酒宴も早くから始まっているので、「(新院が)お待ちかねです。御鞠を早く早く」と行事の奉行(ぶぎょう)の為方(ためかた)が催促するけれども、女房たちは「ただいま、ただいま」と申しつつ、(わざと延ばして)松明(たいまつ)をともすまでになる。

 やがてめいめいの世話役が脂燭(しそく)を持って、「だれそれ、何々様の御局(つぼね)」と呼びあげて、とくに、新院の御前に向って袖を合せ、御あいさつして過ぎるさまは、恥ずかしくてとても言葉も出ない。下臈の八人から順に鞠の庭の下へ参って、それそれのかかりの木のもとに控える有様は、われながら珍らしかった。まして上も下も男たちが大喜びしたさまは申すまでもなかろう。私が御鞠を新院の御前に置いて、急いで退出しようとしたところ、しばらく召しとどめられて、その姿でお酌(しゃく)を申しあげたのは、まったく堪え難かったことであった。

 二三日前から、みなが局々に参って、髪を結ったり水干(すいかん)や沓(くつ)などを着馴れるようにするあいだ、世話役たちがめんどうをみて相手の女房を饗応(きょうおう)するといって、それぞれのグループでいろいろの事があった様子は、御想像にまかせよう。



※ここは女房たちが男装して蹴鞠を行うという『とはずがたり』の中でも屈指の華やかな場面であり、珍しい行事に浮き立つ人々の様子を詳細に描く作者の筆も冴え渡っている。「女房一同この上げ鞠の役を泣き泣き辞退申しあげたので、そういうことのできそうな人だというので、東二条院の御方の女房、新衛門督殿をとくに上臈八人のなかに召し入れて、上げ鞠の役を勤められたことは、これも場合にとっては花やかに面目あることとも申すべきだろう。しかし、うらやましいことではない。」という部分は、他人が主役となることが許せない作者の性格がよく出ていて面白い。その直後に「鞠を袖に受けて御前に置くことは、その日の八人の上席だということで私が勤めた。なんとも晴れがましいことであった。」と、自分が後深草院女房の筆頭であることを強調している点も、作者のプライドの高さを示していて面白い。
 八嶌正治氏はこの場面に関連して、「風俗的にも刺戟的で残酷なものを好む時代相である。僧に魚の頭を料理させて喜んだり、女房に男装の蹴鞠装束をつけさせたり、僧体の男女の愛欲図等、通常のものに飽き足らなくなっている。」(「頽廃の魅力」)などと言われるのであるが、実際にこの場面を読んでみると、別に「刺戟的」とか「通常のものに飽き足らなくなっている」とか評するほどのものでもないのは明らかである。
 ただ、この場面だけを楽しむのではなく、そう言えばこの直前に「有明の月」からブキミな起請文が送られてきた話があったけど、ずいぶん話が飛ぶなあ、あんな気味の悪い話からいきなりこんな楽しそうな場面に転換するなんて何か変だなあ、という具合に、他の場面との整合性を考えて行くと、いったいこの作品はどうなっているのだろう、と不思議な感じがしてくるのである。(こうした『とはずがたり』の奇妙な構造についての私の考え方はこちら。)
 なお、「二三日前から、みなが局々に参って、髪を結ったり水干や沓などを着馴れるようにするあいだ、世話役たちがめんどうをみて相手の女房を饗応するといって、それぞれのグループでいろいろの事があった様子は、御想像にまかせよう。」という一文は、作者が読者の反応を予測して、楽しみながらこの作品を書いていることを明瞭に示している部分であって、作者の性格と『とはずがたり』の執筆動機・執筆態度を検討するうえで極めて重要な箇所だと私は考えるが、ここを重要視する国文学者は全然いないようである。


※『とはずがたり』では「資季大納言入道」は後深草院から諮問を受け、その役目を立派に果たす人物として描かれているが、『徒然草』第135段では、物知り自慢をして若い公卿にやりこめられてしまう滑稽な人として登場する。この点についての私の考え方はこちら。(五味文彦氏「資季と具氏のあらがい」





「私の立場からの補足」は後日掲載します。

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