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『とはずがたり』巻2.「負態の女楽の計画、作者の琵琶の来歴」






原文(『とはずがたり(上)全訳注』p345以下)


 さるほどに、御妬(ねた)みには御勝あり。嵯峨殿(さがどの)の御所(ごしよ)へ申されて、按察使(あぜち)の二品(ほん)のもとにわたらせ給ふ、と御所とかや申す姫宮、十三にならせ給ふを、舞姫に出(い)だし立て参らせて、上臈(じやうらふ)女房たち、童(わらは)・下仕(しもづかへ)になりて、帳台(ちやうだい)の試(こころみ)あり。また公卿厚褄(あつづま)にて、殿上人(てんじやうびと)・六位、肩脱ぎ、北の陣をわたる。美女(びでう)・雑仕(ざうし)が景気などのこるなく、露台の乱舞、御前(ごぜん)の召し、おもしろくとも言ふばかりなかりしを、なほ名残惜しとて、いや妬(ねた)みまであそばして、またこの御所御負け、伏見殿にてあるべしとて、六条院の女楽(をんながく)をまねばる。

 紫の上には東(ひんがし)の御方、女三の宮の琴(きん)のかはりに、箏(しやう)の琴(こと)を隆親(たかちか)の女(むすめ)の今参りに弾かせんに、隆親ことさら所望ありと聞くより、などやらんむつかしくて、参りたくもなきに、「御鞠(まり)の折にことさら御言葉かかりなどして、御覧じ知りたるに」とて、明石(あかし)の上にて琵琶(びは)に参るべしとてあり。

 琵琶は七つの年より、雅光の中納言にはじめて楽(がく)二三習ひて侍りしを、いたく心にも入らでありしを、九つの年より、またしばし御所に教へさせおはしまして、三曲まではなかりしかども、蘇合(そがふ)・万秋楽(まんじゆらく)などはみな弾きて、御賀の折、白河殿くわいそとかやいひしことにも、十にて御琵琶をたどりて、いたいけして弾きたりとて、花梨木(くわりぼく)の直甲(ひたかふ)の琵琶の紫檀(したん)の転手(てんじゆ)したるを、赤地の錦(にしき)の袋に入れて、後嵯峨の院より賜はりなどして、折々は弾きしかども、いたく心にも入らでありしを、弾けとてあるもむつかしく、などやらんものぐさながら出(い)で立ちて、柳の衣(きぬ)に紅(くれなゐ)の打衣(うちぎぬ)、萌黄(もよぎ)の表着(うはぎ)、裏山吹の小袿(こうちき)を着るべしとてあるが、なぞしも必ず人より殊に落ちばなる明石になることは。

 東の御方の和琴(わごん)とても、日ごろしつけたることならねども、ただこの程の御ならひなり。琴(きん)のことの代りの、今参りの箏(こと)ばかりこそしつけたることならめ、女御の君は、花山院(くわざんゐん)太政大臣の女(むすめ)、西の御方なれば、紫の上に並び給へり。これは対座に敷かれたる畳の右の上臈(じやうらふ)にすゑらるべし。御鞠の折にたがふべからずとてあれば、などやらんさるべしとも覚えず、今参りは女三の宮とて、一畳上にこそあらめと思ひながら、御けしきのうへはと思ひて、まづ伏見殿へは御供に参りぬ。今参りは当日に、紋の車にて、侍(さぶらひ)具(ぐ)しなどして参りたるをみるにも、わが身の昔思ひ出でられてあはれなるに、新院御幸(ごかう)なりぬ。



次田香澄氏による現代語訳

 そのうちに復讐戦には院がお勝ちになった。新院は(院の側を)嵯峨の離宮へお招きになって、按察使(あぜち)の二品(ほん)のもとにおいでになる「と御所」とか申しあげる、十三になられる姫宮を舞姫にお仕立て申し、上臈女房たちが童(わらわ)・下仕(しもづか)えになって、五節(せち)の帳台の試みのまねがあった。また公卿は厚褄(あつづま)で、殿上人(てんじょうびと)や六位のものは衣裳を肩から脱ぎ垂れ、北の陣を渡る。美女(びじょう)・雑仕(ぞうし)の様子など残りなく演じ、露台の乱舞や御前のお召しの舞など、おもしろいともなんとも言いようがなかった。なお名残り惜しいとて、そのまた復讐戦までなされて、またこちらの院が御負け、負態(まけわざ)は伏見の御所でなさろうということで、『源氏物語』の六条院の女楽(おんながく)を模されることになる。

 紫の上の役には東(ひんがし)の御方、女三の宮の琴(きん)の役の代りに箏(しょう)の琴(こと)を、隆親(たかちか)の娘の今参りに弾(ひ)かせようというのを、隆親が特別に所望していると聞くや、なんとなくおもしろくなく、参加したくもないが、「最初の御鞠の折に、格別新院からお言葉がかかりなどして、そなたをお見知りであるから」とて、明石の上になって琵琶に奉仕せよということであった。

 私は琵琶は七つの年から、叔父雅光(まさみつ)の中納言に初めて楽曲を二三習ったが、あまり心を入れて稽古もしないでいたのを、九つの年からまたしばらく院がお教えくださって、三秘曲までには至ってはいないけれども、蘇合(そごう)・万秋楽(まんじゅらく)などはみな弾いて、後嵯峨院の御賀のおり、白河殿楽所(がくそ)の御催しとかいったときにも、十歳で琵琶をおぼつかながら御前で弾いて、小さいのに感心によく弾いたというので、花梨木(かりぼく)の一枚板で甲を造った琵琶で、紫檀(したん)の転手(てんじゅ)のついたものを、赤地の錦の袋に入れて、後嵯峨院から賜わりなどもした。その後折々は弾いたが、あまり身を入れることもしないできたのを、今ここで弾けといわれるのも気がすすまず、なんとなく不承不承ながら、用意をする。柳がさねの衣(きぬ)に紅(くれなゐ)の打衣(うちぎぬ)、萌黄(もえぎ)の表着(うはぎ)、裏山吹の小袿(こうちき)を着よということであるが、どうして私がわざわざ他の人よりことに格が下る明石にならなければならないのだろうか。

 東の御方の和琴(わごん)といっても、日ごろ弾きつけていることではなくて、ついこのごろの御練習である。女三の宮の琴(きん)の代りに弾く今参りの箏(そう)の琴(こと)だけこそ修業したものであろうが……女御(にょうご)の君の役は花山院(かざんいん)太政大臣の娘の西の御方であるので、紫の上になる東の御方とお並びになる。私は対座に敷かれた畳の、右の上席に着くことになる。御鞠の折の席次と違ってはならぬ、という仰せである。なんとなくそれでよいとも思われず、今参りは女三の宮というのだから、一畳上に座るのではないかしらとは思うものの、院の仰せであるからにはと思って、まず伏見の御所へお供して参った。今参りは当日家の紋(もん)を描いた車で、正式に従者を連れなどして参ったのを見るにつけても、わが身の若かったころが思い出されて感慨が深いところへ、新院もおいでになった。


☆後深草院二条の怒りが爆発して御所出奔騒動に発展する「女楽事件」の発端となる場面である。
 隆親とその晩年の女「今参り」(新参女房との意味)に対する不満はともかく、「東の御方」(玄輝門院.東宮煕仁親王〈伏見天皇〉の母、1246年生まれで二条より12歳上)についての「東の御方の和琴とても、日ごろしつけたることならねども、ただこの程の御ならひなり。(東の御方の和琴といっても、日ごろ弾きつけていることではなくて、ついこのごろの御練習である。)」という記述は興味深い。
 「粥杖事件」では「東の御方」は極めて好意的に描かれているが、それは主役の自分の引き立て役だからであり、自分が主役でない場面では、直接には関係のない「東の御方」まで八つ当たり気味に悪口を言う後深草院二条の自分勝手さが面白い。
 なお、「わが身の昔思ひ出でられてあはれなるに(わが身の若かったころが思い出されて感慨が深いところへ)」とあるが、この女楽事件は1277年3月、後深草院二条20歳のときのこととされている。





「私の立場からの補足」は後日掲載します。


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