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『とはずがたり』巻2.「祖父隆親の処置に怒り出奔 」






原文(『とはずがたり(上)全訳注』p以下)


 すでに九献(くこん)始まりなどして、こなたに女房次第にゐて、心々(こころごころ)の楽器前に置き、思ひ思ひのしとねなど、若菜の巻にや、記(しる)し文(ぶみ)のままに定めおかれて、時なりて、あるじの院は六条院に代り、新院は大将に代り、殿(との)の中納言中将、洞院(とうゐん)の三位(さんみ)中将にや、笛・篳篥(ひちりき)に階下へ召さるべきとて、まづ女房の座、みなしたためて並びゐて、あなた裏にて御酒盛ありて、半ばになりてこなたへ入らせ給ふべきにてあるところへ、兵部卿(ひやうぶきやう)参りて、女房の座いかにとて見らるるが、

「このやうわろし。まねばるる女三の宮、文台(ぶんだい)の御前なり。いままねぶ人の、これは叔母なり、あれは姪(めひ)なり。上(うへ)にゐるべき人なり。隆親(たかちか)、故大納言には上首なりき。何ごとに下にゐるべきぞ。ゐなほれゐなほれ」と声高(こゑだか)にいひければ、善勝寺・西園寺参りて、「これは別勅にて候ふものを」といへども、「何とてあれ、さるべきことかは」といはるるうへは、一旦(いつたん)こそあれ、さのみいふ人もなければ、御所はあなたにわたらせ給ふに、誰(たれ)か告げ参らせんも詮(せん)なければ、座をしもへおろされぬ。

 出(い)だし車(ぐるま)のこといまさら思ひ出(い)だされていと悲し。姪・叔母にはなじかよるべき。あやしの者の腹に宿る人も多かり。それも、叔母は、祖母(むば)はとてささげおくべきか。こは何ごとぞ。すべてすさまじかりつることなり。これほど面目なからんことに交(まじ)ろひて、詮(せん)なしと思ひて、この座を立つ。

 局(つぼね)へすべりて、「御尋ねあらば消息(せうそく)を参らせよ」といひおきて、小林といふは、御ははが母、宣陽門院(せんやうもんゐん)に伊予殿(いよどの)といひける女房、おくれ参らせさまかへて、即成院(そくじやうゐん)の御墓近く候ふところへ、たづねゆく。参らせおく消息(せうそく)に、白き薄様(うすやう)に、琵琶の一の緒(を)をニつに切りて包みて、

数ならぬ憂き身を知れば四つの緒もこの世のほかに思ひ切りつつ

と書きおきて、「御尋ねあらば、都へ出(い)で侍(はべ)りぬと申せ」と申しおきて、出で侍りぬ。

 さるほどに、九献(くこん)半ば過ぎて、御約束のままに入らせ給ふに、明石の上の代りの琵琶なし。事のやうを御尋ねあるに、東(ひんがし)の御方、ありのままに申さる。聞かせおはしまして、「ことわりや、あかこが立ちけること。そのいはれあり」とて、局(つぼね)をたづねらるるに、「これを参らせて、はや都へ出でぬ。さだめて召しあらば参らせよとて、消息(せうそく)こそ候へ」と申しけるほどに、あへなく不思議なりとて、よろづに苦々しくなりて、いまの歌を新院も御覧ぜられて、「いとやさしくこそ侍れ。今宵(こよひ)の女楽(をんながく)はあいなく侍るべし。この歌を賜はりて帰るべし」とて、申させ給ひて、還御(くわんぎよ)なりにけり。

 このうへは今参り琴弾くに及ばず。めんめんに、「兵部卿(ひやうぶきやう)うつつなし。老いのひがみか。あかこがしやうやさしく」など申して過ぎぬ。




次田香澄氏による現代語訳

 すでに御酒宴が始まりなどして、こちら側には女房が順序どおり座って、思い思いの楽器を前に置き、それぞれのしとねなど、若菜の巻によるのだったか、書付のとおりに決めておかれ、その時刻になって、主(あるじ)の院(後深草院)は源氏の六条院になり、新院(亀山院)は夕霧大将になり、殿の中納言中将、洞院の三位(さんみ)中将であったか、笛・篳篥(ひちりき)の役に階下へお召しになろうというので、まず女房の座をみな用意して、並んで座った。あちらの裏で、お酒盛があり、半ばごろになってこちらへおいでになられるはずであった。

 そこへ、兵部卿(隆親)が参って、女房の座はどうだろうと見られたが、「このやり方は悪い。これから演ずる役の、女三の宮の席は文台(ぶんだい)の御前である。いま出演する人たちの、これ(今参り)は叔母であり、あれ(雅忠女)は姪である。(今参りは)上座に居るべき人だ。隆親(わたし)は故大納言(雅忠)より上位であった。その娘がどうしてあれの下座に座ることがあろう。座り直せ、座り直せ」と声高くいったので、善勝寺(隆顕)・西園寺(実兼)が参って、「これは院の特別の仰せでございますものを」というけれども、「何はともあれ、これではよくない」といわれるうえは、一度はともかく、そう強いていう人もなく、院はあちらにおいでになって、だれかが告げ申しあげようにもしかたがないから、座を下へおろされてしまった。

  あの出(い)だし車のときのことがいまさら思い出されて、たいそう悲しかった。姪(めい)・叔母の関係になんでよることがあろうか。卑しい者の腹に宿る人も多い。それも叔母だの、祖母だのといって奉っておかねばならないのか。これはなんということだろう。まったく面白くないことだ。これほど面目ないことに参加しても、いたしかたがない、と思ってこの座を立った。

 局(つぼね)へそっとおりて、「院のお尋ねがあったらこの手紙をさし上げなさい」と言いおいて、小林−というのは、私の乳母(めのと)の母、宣陽門院で伊予殿(いよどの)といった女房が、女院のおかくれの後、出家して即成院(そくじょういん)のお墓近くにいる所−へ訪ねて行った。さし上げておく手紙には、白い薄様(うすよう)に琵琶の第一の緒(お)を二つに切って包んで、

数ならぬ憂き身を知れば四つの緒もこの世のほかに思ひ切りつつ (物の数ではない情けないわが身の程を知りましたので、このとおり琵琶の絃を切って、琵琶も、この世のことも、今生〈こんじょう〉では断念いたしました)

と書き残して、「お尋ねになったら都へ出ましたと申しあげなさい」こう言い置いて出たのだった。

 そのうちに、酒宴が半ば過ぎて、両院がお約束のままにお出ましになったところ、明石の上の代りの琵琶の役がいない。院が事の次第をお尋ねになったので、東の御方がありのままに申された。お聞きになられて、「もっともなことだな、あかこ(雅忠女)が座を立ったことは。それだけの理由はある」とて局(つぼね)へ尋ねてやられると、女房が「はや、都へ出ました。さだめしお召しがあろうから、そうしたらさし上げよといって、ここにお手紙がございます」と申しあげた。そこで「あっけなく意外なことだ」とて、万事興ざめになってしまい、いまの歌を新院(亀山院)も御覧になって、「ほんとに優雅な振舞いですな。今宵(こよい)の女楽はこれではおもしろくありますまい。この歌をいただいて帰りましょう」といわれ、この歌を所望されてお帰りになった。

 こうなったうえは、今参りも琴を弾くわけにはいかない。人々はめいめいに、「兵部卿(ひょうぶきょう)は非常識だ。老いのひがみか。あかこのやり方は優雅なことだ」などと申して、その場は終った。



※気の強い四条隆親(1203〜1279.77歳)と、同じく気の強い後深草院二条(1258〜?)の、55歳離れた祖父・孫娘コンビによる大喧嘩である。
 どこまで事実を反映しているのかは分からないが、事がここまでに至るには両者の間に以前から相当なトラブルが重なっていたはずである。こういう喧嘩が始まったときの周囲の人の反応としては、また始まったよ、と面白がってニヤニヤ見ているか、変なとばっちりを受けないように無関心を装うくらいが普通だと思うが、後深草院二条が自分の言い分だけを一方的に書いたこの作品では、後深草院・亀山院をはじめ、隆親・今参りをのぞく全ての人々が後深草院二条を応援したように描かれており、いくら何でもわざとらしいのである。
 しばらく前から亀山院の話をチラチラと出していたのも、中立的な立場の亀山院から、客観的意見を装って自分に有利な証言をさせるための下準備だったような感じもする。
 なお、河合隼雄氏は富岡多恵子氏との対談(「キャリアウーマンの自己主張」)で、「みなもう全体として生きているのですね。そして全体として生きている象徴的な中心は、この作者の場合は帝ということになります。そういう生活のなかで、いろんな関係というより流れがあって、そしてその流れは結局は、なろうことなら浄土へいかなければならないわけですね。そういう全体として生きる流れというものは、ひょっとしたら、いまでも日本にずっとそのままあるように考えているのです」などと訳の分からないことを言っているのであるが、この「女楽事件」の場面を読んだだけでも、『とはずがたり』では個人と個人がぶつかり合っているのは明らかで、「みなもう全体として生きている」などという薄気味悪い事態はまったく見られない。『とはずがたり』に描かれているのは、河合隼雄氏の不気味な妄想などとは全く異なる、極めて明晰な世界である。





「私の立場からの補足」は後日掲載します。

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