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『とはずがたり』巻2.「関係者作者を捜す、醍醐に移る」







原文(『とはずがたり(上)全訳注』p358以下)


 あしたはまたとく、四条大宮の御ははがもと、六角櫛笥(くしげ)のむばのもとなど、人をたまはりて御たづねあれども、行方知らずと申しけり。さるほどに、あちこち尋ねらるれども、いづくよりかありと申すべき。よきついでに憂き世をのがれんと思ふに、十二月(しはす)の頃より、ただならずなりにけりと思ふ折からなれば、それしもむつかしくて、しばしさらば隠ろへゐて、この程すぐして身二つとなりなばと、思ひてぞゐたる。

 これよりして長く琵琶の撥(ばち)を取ちじと誓ひて、後嵯峨の院より賜はりてし琵琶の八幡(やはた)へ参らせしに、大納言の書きて賜(た)びたりし文(ふみ)の裏に、法華経を書きて参らするとて、経の包紙に、

この世には思ひ切りぬる四つの緒(を)のかたみや法(のり)の水茎(みづくき)のあと

 つくづくと案ずれば、一昨年(をととし)の春、三月(やよひ)十三日に、はじめて「折らでは過ぎじ」とかや承り初(そ)めしに、去年(こぞ)の十二月(しはす)にや、おびたたしき誓ひの文(ふみ)を賜はりて、幾ほども過ぎぬに、今年の三月十三日に、年月候(さぶら)ひなれぬる御所のうちをも住みうかれ、琵琶をも長く思ひ捨て、大納言かくれて後は親ざまに思ひつる兵部卿(ひやうぶきやう)も、快からず思ひて、「わが申したることをとがめて出(い)づるほどのものは、わが一期(ご)にはよも参り侍らじ」など申さるると聞けば、道とぢめぬる心地して、いかなりけることぞといと恐ろしくぞ覚えし。

  如法(によほふ)、御所よりもあなたこなたを尋ねられ、雪の曙も山々寺々までも、思ひ残すくまなく尋ねらるるよし聞けども、つゆも動かれず隠れゐて、聞法(もんぽふ)の結縁(けちえん)もたよりありぬべく覚えて、真願房(しんぐわんぼう)の室(むろ)にぞまた隠れ出(い)で侍りし。




次田香澄氏による現代語訳

 翌朝はまた早く、四条大宮の乳母のところ、六角櫛笥(くしげ)の祖母のところなど、人を下さってお尋ねになったが、どこも行方はわからないと申しあげた。さてあちらこちらとお尋ねになるけれども、どこから「ここにいます」と申すわけがあろう。このよい機会に憂き世を遁(のが)れようと思うけれども、十二月のころから体も普通でなくなったと思う折柄なので、それまた思うにまかせず、それではしばらくの間隠れていて出産までを過し、身二つになったらと考えていた。

 これから一生琵琶の撥(ばち)を取るまいと誓って、後嵯峨院から賜った琵琶を八幡宮へ奉納した際、かつて父大納言が私に書いてくださった手紙の裏に、「法華経」を書いて奉納するとて、そのお経の包紙に、

この世には思ひ切りぬる四つの緒の形見や法(のり)の水茎(みづくき)のあと (この世では断念してしまった琵琶を、父の形見の手紙の裏に書いた経文とともに奉納いたします)

 つくづくと思えば、一昨年の春、三月十三日に、有明から初めて「折らでは過ぎじ」とかいう言葉をいただいたが、去年の十二月であったか恐ろしい起請のお手紙をいただいて、いくらも過ぎないうちに、今年の三月十三日に、長の年月仕え慣れた御所のうちをも落ち着かないで出てしまい、琵琶をも一生思い切り、父大納言が亡くなられて後は親代りと思った兵部卿(隆親)も、私を快からず思って、「わたしが申したことをとがめて出たほどの者ですから、わたしの生きている間には、よもや御所へはまいりますまい」など申されていると聞いては、どこもどこも道がとだえた心地がして、いったいどうしたことだったろうと、まことに恐ろしく思われた。

 案のじょう院からもあちらこちらを尋ねられ、雪の曙も山々寺々まで思い残すところなく尋ねていられる由(よし)を聞いても、すこしも動く気になれず隠れていたが、仏の教えをきく結縁(けちえん)の便宜もきっとあろうと思い、真願房(しんがんぼう)の庵室(あんしつ)へまたこっそりと出た。



※醍醐についてはこちら。(細川涼一氏「洛東山科における寺院の成立と展開−醍醐寺の歴史と真言密教寺院の展開」)





「私の立場からの補足」は後日掲載します。


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