更新12.1/10 up10.10/9


原文を見る
『とはずがたり』巻2.粥杖の報復に作者院を打つ







原文(『講談社学術文庫.とはずがたり(上)全訳注』p261)


 春宮(とうぐう)の御方(おんかた)、いつしか御かたわかちあるべしとて、十五日のうちとひしめく。例の院御方(ゐんのおんかた)、春宮両方にならせ給うて、男、女房めんめんに籤(くじ)にしたがひて分(わ)かたる。相手、みな男に女房合(あは)せらる。春宮の御方には、傅(ふ)の大臣(おとど)をはじめてみな男、院の御方は、御所よりほかはみな女房にて、相手を籤にとらる。傅の大臣の相手にとり当る。「めんめんに引出(ひき)で物、思ひ思ひに一人づつして、さまざま能(のう)を尽してせよ」といふ仰せこそ。

 女房の方(かた)にはいと堪へがたかりしことは、あまりにわが御身ひとつならず、近習(きんじゆ)の男たちを召しあつめて、女房たちを打たせさせおはしましたるを、ねたきことなりとて、東(ひんがし)の御方と申しあはせて、十八日には御所を打ち参らせんといふことを談議して、十八日に、つとめての供御(くご)はつるほどに、台盤所(だいばんどころ)に女房たち寄り合ひて、御湯殿の上のくちには新大納言殿・権中納言、あらはに別当殿、つねの御所のなかには中納言どの、馬道(めんだう)に真清水(ましみづ)さぶらふなどを立ておきて、東の御方と二人、すゑの一間にて何となき物語して、「一定(いちぢやう)、御所はここへ出でさせおはしましなん」といひて待ち参らするに、案にもたがはず、思し召しよらぬ御ことなれば、御大口(おほくち)ばかりにて、「など、これほど常の御所には人影もせぬぞ。ここには誰(たれ)か候(さぶら)ふぞ」とて入らせおはしましたるを、東の御方かきいだき参らす。

 「あなかなしや、人やある、人やある」と仰せらるれども、きと参る人もなし。からうじて、廂(ひさし)に師親(もろちか)の大納言が参らんとするをば、馬道(めんだう)に候ふ真清水、「子細候ふ。通し参らずまじ」とて杖(つゑ)を持ちたるを見て、逃げなどするほどに、思ふさまに打ち参らせぬ。「これよりのち、ながく人して打たせじ」と、よくよく御怠状せさせ給ひぬ。



次田香澄氏の現代語訳

私の立場からの補足

 東宮の御方では、はやくも人数を左右に分けてお遊びをなさろうとのこと、それも十五日のうちにというので、みな騒ぎ立っている。例のように、院と東宮とが別々の組におなりになって、男・女房たちをそれぞれに籤に従ってお分けになる。相手にはみな、男に対して女房を合わせられる。東宮の方では傅の大臣をはじめとしてみんな男、院の方は、院よりほかはみんな女房で、相手を籤で決められる。私は傅の大臣の相手に当たった。「各自引き出物を思い思いに、一人ずついろいろと工夫をこらして用意せよ」という仰せである。

「春宮」は煕仁親王(伏見天皇.1265〜1317.53歳)のこと。煕仁親王は史実としては1275年11月に春宮となっているのであるが、『とはずがたり』では、後深草院(1243〜1304.62歳)が皇位継承に関する幕府の措置を不満に思って出家の意志を表明したが、煕仁親王が春宮となったので出家を取りやめたとの一連の経過が、すべて前年(1274年)のこととしか読めないように書かれている。

「傅の大臣」は春宮の養育係であるが、ここでは二条師忠(1254〜1341.88歳)のこと。後深草院二条より4歳上。師忠は『増鏡』でも何度か登場するが、あまり良い役ではない。(具体例はこちら。)

「東の御方」は洞院実雄の娘、煕仁親王の母である玄輝門院(1246〜1329.84歳)のこと(但し院号宣下は1288年)。『徒然草』第33段に、老いても記憶が明晰な玄輝門院に関する印象的な挿話が載せられている。

 十五日の粥杖の日に、女房の方としてとてもがまんできないことには、院が興のあまり、御自身だけでなく、御近習の男たちまで召し集めて、女房たちをお打たせになった、それがくやしいことだというので、私は東の御方と申し合せ、十八日には院をお打ち申しあげようということを相談してきめた。

 十八日の朝のお食事が終ったころ、台盤所に女房たちが寄り合って、御湯殿の上の入口には、新大納言殿・権中納言、表の場所に別当殿、常の御殿の中には中納言殿がひかえ、また渡り廊下には真清水さぶろうなどを立たせておいて、東の御方と私と二人で、端の一間で、なんということもない話をして、「御所様はきっとここへおいで遊ばされますよ」といって待ち構えていた。

 案のじょう、院は思いも及ばれないことなので、大口袴だけのくつろいだお姿で、「こんなに常の御殿に人影もしないのはどうしたのだ。ここにはだれかいないのか」といっておはいりになられたところを、東の御方がかき抱き申しあげる。

 「これはひどい、だれかいないか、だれかいないか」とおっしゃるけれども、急いで参る人もない。やっとのことで、廂の間にいた師親の大納言が参ろうとするのを、渡り廊下にいた真清水が、「わけがございます。お通し申せません」と杖を持っているのをみて、逃げたりするあいだに、院を思うさまお打ち申しあげた。「これから後、人に打たせるようなことは、けっしてすまい」とよくよくお謝りになった。



師親の大納言」は北畠師親(1241〜1315.75歳)のこと。親房の祖父。ただし師親が権大納言になったのは1283年で、1275年の時点では権中納言である。亀山院に重用され、1289年、亀山院の落飾とともに出家した。なお、親房の父親の師重(1270〜1322.53歳)も、『とはずがたり』の最後の部分に登場する。(原文はこちら。)





トップページ 原文を見る 次の場面