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| 原文(『とはずがたり(上)全訳注』p363以下) さるほどに、四月(うづき)の祭の御桟敷(さじき)の事、兵部卿(ひやうぶきやう)用意して、両院御幸(ごかう)なすなどひしめくよしも、耳のよそに伝へ聞きしほどに、同じ四月の頃にや、内(うち)・春宮(とうぐう)の御元服に、大納言の年のたけたるがいるべきに、前官わろしとて、あまりの奉公の忠のよしにや、善勝寺が大納言を、一日借りわたして参るべきよし申す。神妙(しんべう)なりとて、参りて振舞ひまゐりて、返しつけらるべきよしにてありつるが、さにてはなくて、ひきちがへ経任(つねたふ)になされぬ。 さるほどに善勝寺の大納言、故なくはがれぬること、さながら父の大納言がしごとやと思ひて、深く恨む。当腹(たうふく)隆良(たかよし)の中将に、宰相を申すころなれば、この大納言を参らせ上げて、われを超越(てうをつ)せさせんとすると思ひて、同宿も詮(せん)なしとて、北の方が父九条中納言家に、籠居(ろうきよ)しぬるよし聞く。 いとあさましければ、行きてもとぶらひたけれども、世の聞えむつかしくて、文(ふみ)にて、「かかる所に侍るを、立ち寄り給へかし」など申したれば、「あとなく聞きなしてのち、よろづいはん方(かた)なく覚えつるに、うれしくこそ。やがて夜さり参りて、いぶせかりつる日数も」などいひて、暮るるほどにぞ立ち寄りたる。 四月(うづき)の末つ方のことなるに、なべて青みわたる梢(こずゑ)のなかに、遅き桜の、ことさらけぢめ見えて白く残りたるに、月いとあかくさし出(い)でたるものから、木陰(こかげ)は暗きなかに鹿のたたずみありきたるなど、絵に描(か)きとめまほしきに、寺々の初夜の鐘ただいま打ちつづきたるに、ここは三昧堂(さんまいだう)つづきたる廊なれば、これにも初夜の念仏近きほどに聞ゆ。 回向(えかう)して果てぬれば、尼どもの麻(あさ)の衣の姿、いとあはれげなるを見出(い)だして、大納言も、さしも思ふことなく太りたる人の、ことさらうちしめりて、長絹(ちやうけん)の狩衣(かりぎぬ)の袂(たもと)もしほりぬ。 「いまは、恩愛の家を出でて、真実(しんじち)の道に思ひ立つに、故大納言の心苦しく申しおきしこと、我さへまたと思ふこそ、おもひのほだしなれ」など申せば、我も、げにいとど何をかと、名残をしさも悲しきに、薄き単(ひとへ)の袂は乾くところなくぞ侍りける。 「かかる程をすごして、山深く思ひ立つべければ、同じ御姿にや」など申しつつ、かたみにあはれなること言ひつくし侍りしなかに、 「さてもいつぞや、恐ろしかりし文(ふみ)を見し、我すごさぬことながら、いかなるべきことにてかと、身の毛もよだちしか。いつしか、御身といひ身といひ、かかることの出できぬるも、まめやかに報いにやと覚ゆる。 さても、いづくにもおはしまさずとて、あちこち尋ね申されし折ふし、御参りありて、御帰りありし御道にて、『まことにや、かくと聞くは』と御尋ねありしに、『行方なく、今日までは承る』と申したりしに、いかが思(おぼ)しけん、中門(ちゆうもん)のほどに立ちやすらひつつ、とばかり物も仰せられで、御涙のこぼれしを、檜扇(ひあふぎ)にまぎらはしつつ、『三界無安(さんがいむあん)猶如火宅(ゆによくわたく)』と口ずさみて、出(い)で給ひしけしきこそ、常ならん人の、恋し、悲し、あさまし、あはれと申しつづけんあはれにも、なほまさりてみえ侍りしかば、本尊に向ひ給ふらん念誦(ねんじゆ)も推しはかられて」 など語るを聞けば、悲しさ残るとありし月影も、いまさら思ひ出(い)でられて、などあながちにかうしも情なく申しけんと、くやしき心地さへして、わが袂さへ露けくなり侍りしにや。 夜(よ)明けぬれば、世の中もかたがたつつましとて、帰らるるも、「事ありがほなる朝帰りめきて」などいひて、いつしか、「今宵(こよひ)のあはれ、今朝の名残、まことの道には棄(す)て給ふな」などあり。
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| 次田香澄氏による現代語訳 |
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そうしているうちに、四月の賀茂祭(かもまつり)見物の御桟敷(さじき)のことを兵部卿(ひょうぶきょう)が用意し、両院の御幸(ごこう)をお世話するなど、騒ぎ立っているということも、よそ事のように伝え聞いたが、同じ四月のころであろうか、主上(後宇多院)・東宮(伏見院)の御元服の儀式に、大納言で年齢の高い人が必要であるのを、前官では悪いというので、兵部卿があまりの奉公の忠義だてのつもりでか、子息善勝寺隆顕(たかあき)の大納言の官を、一日借り受けて奉仕すると申し出た。殊勝なことだということで、兵部卿は参内(さんだい)して、御元服の上寿の役に奉仕してのち、当然大納言を隆顕に返すということだったが、そうではなくて、引き違い経任(つねとう)が大納言に任ぜられた。 善勝寺は、大納言の官を理由なくして剥奪されたことはまったく父の大納言のしわざと思い、深く恨んだ。兵部卿は現在の北の方(かた)の腹の隆良(たかよし)の中将の参議任官をしきりに申し入れていたころであるから、ここで経任を大納言に押し上げて、自分の地位を越えさせようとするつもりだろうと善勝寺は考え、父との同居も意味がないと、北の方の父九条中納言の邸(やしき)に籠居(ろうきょ)したということを聞く。 まったく驚いたことなので、行って見舞もしたいけれど、世間のきこえも煩わしいので、手紙で、「こういう所におりますが、お寄りくださいませ」と申した。「行方がわからないと聞いてのち、なにもかも言いようのない気持でいたのに御無事でよかった。さっそく夜分(やぶん)参って、おたがい憂鬱だったこの日ごろのこともお話しましょう」と返事があって、日が暮れるころ訪ねてきた。 四月の末ごろのことであるが、おしなべて青葉になった木々のこずえのなかに、遅い桜がいっそうきわだって白く残り、月は明るくさし出ているものの木陰は暗いなかに、鹿がたたずみ歩いているなど、絵に描きとどめたいようである。寺々の初夜を告げる鐘がただ今打ち続くと、ここは三昧堂(さんまいどう)につづいた廊なので、こちらへも初夜の念仏がほど近く聞えてくる。 回向文(えこうもん)を唱えて念仏が終って出てゆく尼たちの麻(あさ)の衣の姿が、たいそう哀れげであるのを見遣って、あんなに物思いもなく太っていた大納言(隆顕)も、格別思い沈んで、長絹(ちょうけん)の狩衣(かりぎぬ)の袂(たもと)もおのずと涙にしおれた。 「今は恩愛の境涯を出て、仏の道へと思い立つのですが、故大納言(雅忠)があんなに心配して頼み置かれたあなたのことを、私もまた見捨てると思いますと、それだけが出家するのに気がかりです」というので、私も、ほんとにこのうえ、なにをいうことがあろうと、叔父への名残り惜しさも悲しく、薄い単(ひとえ)の袂(たもと)は涙で乾くところもなかった。 「こういう時期を過したら、私も山深く籠(こも)る決心ですから、あなたも私と同じお姿というわけでしょうか」など言いつつ、たがいにしんみりしたことを残らず語り合った。そのなかで、 「それはそうと、いつぞやあの方(有明)からの恐ろしい手紙をみましたが、私の過ちではないにしても、いったいどうしたわけであろうかと、身の気もよだちましたよ。さっそくあなたといい、私といい、こういうことが起ったのも、ほんとうに報いのような気がします。 それにしても、あなたがどこにもいらっしゃらないというので、あちこちみながお尋ねになられたころ、あの方が御所へおいでになられて、お帰りの道で私に、『まことでしょうか、これこれと聞くのは』とお尋ねになったので、『今日までのところは行方がわからないと伺っております』と申したところ、どうお思いになったのか、中門の辺にたたずみながら、しばらくものもおっしゃらず、お涙がこぼれたのを檜扇(ひおうぎ)でそっとまぎらわしながら、『三界無安(さんがいむあん)、猶如火宅(ゆにょかたく)」と口ずさんでお出になりました。その御様子は、普通の人が恋しい、悲しい、情けない、せつないと言い続けるようなあわれよりも、はるかにまさって見えましたから、本尊にお向いになっての念仏のお気持も推し測られて」 など語るのを聞くと、「悲しさ残る」といわれた夜の月影も今さら思い出されて、どうして強いてあんなに情けなく申しあげたのだろうと、口惜しい気持さえして、思わず涙ぐまれたことだった。 夜が明けたので、世間もいろいろはばかられるからと言って帰られながら、善勝寺は、「なにか事ありげな朝帰りめいていますね」などといったが、さっそく途上から、「昨夜のあわれ、今朝の名残(ほんとうに心に残って忘れられない)、仏の道に入ってもお見捨てになるな」と手紙があり、
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| 隆親・隆顕父子の対立 四条隆親(1203〜1279.77歳)には長男に房名(1229〜1288.60歳)がいたが、鎌倉幕府の最有力御家人足利義氏(1189〜1254.66歳)の娘を母とする、房名より14歳年下の隆顕(1243〜?)が嫡子となった。隆顕に「善勝寺大納言」と四条家の氏寺善勝寺の名が冠せられていたことは、その正嫡の地位を示している。 隆顕は隆親の権勢を背景に急速に昇進したが、1276年12月20日に大納言を辞し、同日隆親が大納言に還任した。翌1277年正月29日、中御門経任(1233〜1297.65歳)が権大納言となり、2月6日、隆親は大納言を辞している。隆顕が出家(法名顕空)したのは5月4日であり、『公卿補任』には「與父卿不和不調之所行等之故云々。」と記されている。 隆親・隆顕父子の不和の原因については、きちんとした史料がないので不明と言わざるをえないが、『とはずがたり』に描かれているような、隆親が末子の隆良(?〜1296)を偏愛した云々という単純な理由によるものとは思えない。もっと根本的な、例えば隆顕が後深草院に接近しすぎたことが老練な隆親に懸念を抱かしめた、などといった四条家の運営方針に関する意見対立によるのではないか、などとも思われるのであるが、想像の域を出ない。 ただ、隆顕が嫡子となったのは足利義氏の娘を母としていたからであり、隆顕が生まれた頃に比べ、鎌倉幕府内での足利家の地位が格段に低下したことが隆顕に不利に働いたことは否めないのではないかと私は思う。 なお、隆顕の孫の隆資(1292〜1352.61歳)は南朝の忠臣として獅子奮迅の活躍をすることになるが、隆資の情熱を支えたひとつの柱は、隆顕の系統こそ四条家の正統であるとの確信ではないかと思われる。 隆資には6人の子があったが、早世した1人をのぞき、残りは南朝方として父と行動をともにし、結局、全員が討死ないし処刑されて、隆顕の系統の四条家は廃絶した。房名の子孫の四条家と、隆良の子孫の鷲尾家は存続し、後にそれぞれ四条侯爵家・鷲尾伯爵家となっている。 ※四条家と足利家の関係についての私の考え方は村井章介氏「執権政治の変質」の「私の立場からの補足」にも少し書いた。鎌倉時代の足利家についてはこちら(臼井信義氏「尊氏の父祖−頼氏・家時年代考」)。四条隆資についてはこちら(中村直勝氏「増鏡の史実性について」)。 |