更新12.2/28 up12.2/27
| 原文(『とはずがたり上)全訳注』p392以下) 八月(はづき)のころにや、近衛大殿(このゑのおほとの)御参りあり。後嵯峨の院御かくれの折、「かまへて御覧じはぐくみ参らせられよ、と申されたりける」とて、常に御参りもあり、またもてもなし参らせられしほどに、常の御所にて、内々九献(くこん)など参り候ふほどに、御覧じて、「いかに、行方なく聞きしに、いかなる山に籠(こも)りゐて候ひけるぞ」と申さる。 「おほかた方士(はうじ)が術ならでは、尋ね出(い)でがたく候ひしを、蓬莱(ほうらい)の山にてこそ」など仰せありしついでに、「地体、兵部卿(ひやうぶきやう)が老いのひがみ、殊のほかに候ふ。隆顕が籠居(ろうきよ)もあさましきこと、いかにかかる御まつりごとも候ふやらんと覚え候。経任(つねたふ)大納言申しおきたる子細などぞ候ふらん。さても琵琶(びは)は棄てはてられて候ひけるか」と仰せられしかども、ことさら物も申さで候ひしかば、「身一代ならず子孫までと、深く八幡宮に誓ひ申して候ふなる」と御所に仰せられしかば、 「むげに若き程にて候ふに、にがにがしく思ひ切られ候ひける。地体、あの家の人々は、なのめならず家を重くせられ候。村上天皇より家久しくしてすたれぬは、ただ久我(こが)ばかりにて候。あの傅(めのと)仲綱は、久我重代の家人(けにん)にて候ふを、岡屋(をかのや)の殿下、ふびんに思はるる子細候ひて、『兼参(けさん)せよ』と候ひけるに、『久我の家人なり、いかがあるべき』、と申して候ひけるには、『久我大臣家は、諸家には准ずべからざれば、兼参子細あるまじ』と、みづからの文(ふみ)にて仰せられ候ひけるなど、申し伝へ候。隆親の卿、女(むすめ)・叔母なれば、上(うへ)にこそと申し候ひけるやうも、けしからず候ひつる。 前(さき)の関白、新院へ参られて候ひけるに、やや久しく御物語ども候ひけるついでに、『傾城(けいせい)の能には、歌ほどのことなし。かかる苦々しかりしなかにも、この歌こそ耳にとどまりしか。梁園(りやうゑん)八代の古風といひながら、いまだ若きほどにありがたき心遣ひなり。仲頼と申してこの御所に候ふは、その人が家人なるが、行方なしとて、山々寺々たづねありくと聞きしかば、いかなる方(かた)に聞きなさんと、我さへしづ心なくこそ』など、御物語候ひけるよし承りき」など申させ給ひき。 |
| 次田香澄氏による現代語訳 |
八月のころであろうか、近衛大殿(兼平)が御所へおいでになられる。後嵯峨院がお亡くなりの際、「くれぐれも心に掛けて(後深草院を)引立て、めんどうをみてさし上げてくださいと申されました」ということで、大殿はつねにおいでになり、また院も大殿を歓待申しあげられていたが、この時も常の御殿で内々の御酒宴の間に、大殿は私を御覧になって、「おや、あなたは行方がわからないと聞いていたが、どういう山に籠っておられたのですか」と申される。 「およそ方士(ほうじ)の術でなくては捜し出すことが困難でしたのを、蓬莱(ほうらい)の山で見つけ出しましてね」と院がおっしゃる。 そのついでに大殿は、「だいたい、兵部卿(隆親)の老いのひがみは、話のほかでございますな。隆顕の籠居(ろうきょ)もあきれたこと、どうしてこういう御人事もあるのでしょうかと思います。経任(つねとう)が大納言をぜひと申していた事情などがあったのでございましょうな。それはそうと、琵琶はすっかり棄ててしまわれましたか」 とおっしゃった。 しかし、私はとりわけなにも申しあげないでいたところ、「いや当人一代だけでなく、子孫まで琵琶は絶つと、深く八幡宮に誓ったそうですから」と院がおっしゃる。 「まったく若い年ごろですのに、思い切られたとは残念ですね。いったいあの久我(こが)家の人々は、並々ならず家を重んぜられます。村上天皇から出た家で、久しく続いてすたれないのは久我ばかりです。あの(二条殿の)守役仲綱は、久我重代の家人(けにん)でございますのを、(私の兄)岡の屋の前関白(兼経)が、いとおしく思われた事情がありまして、『当家へも参上せよ』と申しましたところ、『久我の家人です。いかがいたしましょう』と申しましたのに対し、『久我大臣家は別格で、他家の例に准じなくてよいから、そなたが当家へ兼ねて出入しても差支えなかろう』と殿下みずから仲綱へ手紙でおっしゃったと申し伝えております。隆親の卿が、今参りは自分の娘であり、二条の叔母であるから、上座に座るべきだと申しました一件も不都合でございましたな。 (私の息子)前関白が新院(亀山)のところへ参られまして、ゆっくり御物語がありました折に、「女性のたしなみとしては、歌ほどのものはない。あのように苦々しい事の中にも、この二条の歌が耳に残りましたよ。具平(ともひら)親王以来、八代の古い伝統の家の風(ふう)とはいえ、まだ若い年ごろで珍しい心遣いです。仲頼と申してわたしの御所に仕えている者は、その人の家人(けにん)ですが、二条の行方が知れないといって、山々寺々を尋ね歩いていると聞いたので、成り行きはどうだろうかと、わたしまで落着きませんな』などと仰せがあった、と伺いました」などと申される。 |
| ☆私の立場からすれば、ここは後深草院二条が「近衛大殿」や亀山院といった大物の口を借りて、自分に都合の良いように話を適当にふくらませて好き放題なことを言いまくっている、とんでもない場面である。 近衛大殿は、この後に続く『とはずがたり』の中でも屈指の変態場面の主役として、その変態ぶりを存分に発揮するのであるが、国文学会ではこれが実在の人物であって、鷹司家の祖、鷹司兼平(1228〜1294.67歳)だと断定されてしまっている。「近衛」とわざわざ書いてあるのだから、本当に実在の人物の現実の行動を描いたのだろうかと疑問に思う学者もいそうなものであるが、その点は例によって「朧化」のひと言ですまされているのである。 ☆「岡屋の殿下」は鷹司兼平の兄、近衛兼経(1210〜1259.50歳)。「前関白」は兼平の長男、鷹司基忠(1247〜1313.67歳)。近衛兼経・鷹司兼平・鷹司基忠の略歴はこちら。近衛・鷹司家の系図はこちら。 ☆久我家の来歴についてはこちら。(橋本義彦氏「村上の源氏」) |
☆「私の立場からの補足」は後日掲載します。