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『とはずがたり』巻2.「舟遊、ふたたび大殿と逢う」







原文(『とはずがたり上)全訳注』p413以下)


 事ども始まりて、今日はいたく暮れぬほどに御舟に召されて、伏見殿へ出(い)でさせおはしはします。更けゆくほどに、鵜飼(うかひ)召されて、鵜舟、端(はし)舟につけて、鵜使はせらる。鵜飼三人参りたるに、着たりし単襲(ひとへがさね)賜(た)ぶなどして、還御(くわんぎよ)なりてのち、また酒参りて、酔(ゑ)はせおはしますさまも今宵はなのめならで、更けぬれば、また御(お)よるなる所へ参りて、「あまた重ぬる旅寝こそすさまじく侍(はべ)れ。さらでも伏見の里は寝にくきものを」など仰せられて、「脂燭(しそく)さして給(た)ベ。むつかしき虫などやうのものもあるらん」と、あまりに仰せらるるもわびしきを、「などや」とさへ仰せ言あるぞ、まめやかに悲しき。

 「かかる老いのひがみは、思(おぼ)し許してんや。いかにぞやみゆることも、御めのとになり侍らん古きためしも多く」など、御枕にて申さるる、いはん方なく悲しともおろかならんや。例のうらうらと、「こなたもひとり寝はすさまじく、遠からぬほどにこそ」など申させ給へば、よべの所に宿りぬるこそ。

 今朝は夜のうちに還御(くわんぎよ)とてひしめけば、起き別れぬるも、憂き殻残るといひぬべきに、これは御車の尻(しり)に参りたるに、西園寺(さいをんじ)も御車に参る。清水の橋のうへまでは、みな御車を遣(や)りつづけたりしに、京極より御幸(ごかう)は北へなるに、残りは西へ遣り別れし折は、何となく名残惜しきやうに、車の影のみられ侍りしこそ、こはいつよりの習はしぞと、わが心ながらおぼつかなく侍りしか。



次田香澄氏による現代語訳


 御酒宴が始まって、今日はあまり暮れないうちに御舟に召されて、伏見殿へおいでになられる。夜が更けゆくころに、鵜飼をお呼びになって、鵜舟をお召しの舟の端(はし)舟としてつけて、鵜をお使わせになる。鵜飼が三人参っていたのに対し、私が着ていた単襲(ひとえがさね)を脱がせて賜わるなどして、

(下の御所ヘ)お帰りになって後、また酒を召しあがって、お酔いになるさまも今宵はひととおりでなく、夜も更けたころ、またお寝(やす)みのところへ大殿が参って、「度重なる旅寝はほんとうに味気ないものですよ。そうでなくても伏見の里は寝にくいといわれていますのに」 などおっしゃられて、 「脂燭(しそく)をさしてください。いやなむしなどのようなものもいるでしょうから」と、しつこく申されるのもやり切れないのに、「どうして行かないのか」とまで院の仰せがあるのは、これはほんとうに悲しい。

  「こういう老人のひがみは許してくださいませんか。すこし釣合わないようにみえても、お守役になるという古い例も多いことだから」などと、院のお枕もとで申されるのは、なんと言いようもなく、悲しいどころではない。院は例のように御きげんよく、「こちらもひとり寝は物寂しいから、あまり遠くない所にいてくれよ」などおっしゃられるので、また昨夜の所に泊ったのは、(なんとも堪えがたいことであった。)

 今朝はまだ暗いうちにお帰りとて騒ぎ立つので、起き別れたのも、「憂き殻のこる」というような心地であったが、私は院のお車に同車でお供したが、西園寺も同じお車に御奉仕される。清水の橋の上まではみなお車をひき続けたが、京極通りから院の御一行は北へおいでになるのに、残りの車は西へ行き別れた折には、なんとなく名残おしいようにあちらの車のうしろ影が見送られたのは、これはいったい、いつからそんな気持になったのだろうかと、わが心ながらおぼつかなく思ったことだった。



伏見御幸の時期の奇妙さについて

 次田香澄氏は「解説」で次のように述べている。

 初めに、院が彼女の着ている衣を鵜匠に与えさせるところがある。これは、今回の伏見行きに、曙から贈られたものであり、曙はこの様子を傍らでみて、さぞおもしろからず思ったろう。院としては、昨夜の筒井の御所のことも、この件も、彼女と曙との関係を知悉した上で、あえていやがらせをしたことになる。しかし曙としては悔しくてもどうにもならない。そうした彼女をめぐる男たちの卍巴(まんじどもえ)の心理の葛藤が暗黙のうちに想像される部分である。 終りの、五条橋を渡って車が遣り別れるときの作者の心理も、これまでの経過と作者の心情からすれば不可思議に思われる。しかし、女性の微妙な心理を理解すれば、女性の内面的な秘密を告白したものだと知るのであり、ここに物語・小説などの創作では求めえない真実の迫力を感じないではいられない。 巻二を院・大殿と作者との関係で終ったことは、その関係の異常性が、巻三において院有明と作者との関係、同時lこ曙との関係の終焉として発展する前表とみることができよう。

 私はあまり「女性の微妙な心理を理解」できないので、次田香澄氏の言われることはよく分からない。こんなのんびりした感想を抱くような人が本当に「死ぬばかり悲し」とか「いはん方なく悲し」などと思っていたのか、この人が本当に「被害者」なのかという疑いを深めるばかりである。
 また、そもそも「女性の内面的な秘密」がどうのこうのと言う前に、もっと外面的なところで詰めておくべき作業があるように思われる。それはこの伏見御幸が行われた時期についての検討である。
 『とはずがたり』を素直に読む限り、この伏見御幸が行われたのは「女楽事件」と同じ年である。二条が「女楽」の配役をめぐって祖父隆親と大喧嘩し、御所を飛び出して行方不明になったのが、国文学者の「年立て」によれば建治3年(1277)3月のことであり、翌4月に善勝寺大納言隆顕が父隆親と対立して籠居、同じ4月末に二条は醍醐で隆顕と会い、また隆顕・雪の曙と三人で語り合い、さらに後深草院に迎えられて御所に戻る。そして8月になって伏見御幸が行われるのであるが、実は二条は「女楽事件」のときには妊娠していたことになっていて、懐妊は前年の12月頃と書かれているのである。
 そうだとすれば伏見御幸が行われた建治3年8月には二条は妊娠9か月であり、出産直前の時期であるが、そういう時期に牛車にガタガタ揺られ、船に乗って伏見くんだりまで行くこと自体が奇怪であり、また近衛大殿が後深草院の了解のもとで妊娠9か月の女と連日同衾したとすれば、それはグロテスクとしか言いようのない光景である。
 次田香澄氏、久保田淳氏、三角洋一氏といった錚々たる国文学者の書かれた『とはずがたり』の注釈書には、いずれも詳細な年表が付されていて、そこには女楽事件が建治3年3月、伏見御幸が同年8月と明記されているのであるが、これはいったいどういうことなのだろうか。学者たちは詳細な年表まで作りながら何の疑問もいだかないのだろうか。
 私は、伏見御幸の時期ひとつとっても、ここで語られていることに「真実の迫力」など全く感じない。伏見御幸の話は確かにその描写が「リアル」で異常な迫力があるが、それは「真実の迫力」ではなくて、特別な才能を持つ作家の手により緻密に構成された濃密な演劇的空間においてのみ生まれる「虚構の迫力」だと考える。それは「物語・小説などの創作で」なくて「は求めえない」リアルさだと考える。

☆「女楽」をめぐり隆親と大喧嘩して二条が御所を飛び出し、関係者が二条を探す場面はこちら。そこでは「十二月(しはす)の頃より、ただならずなりにけりと思ふ折からなれば」とある。なお、『とはずがたり』の「年立て」については、私はそんなものを厳密にやっても仕方ないという立場であるが、その点についてはこちら





「私の立場からの補足」は後日掲載します。


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