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『とはずがたり』巻2.院の訴え、一族贖いに定まる







原文(『講談社学術文庫.とはずがたり(上)全訳注』p265)


 さて、しおほせたりと思ひてゐたるほどに、夕供御(くご)まゐる折、公卿(くぎやう)たち常の御所に候ふに仰せられ出(い)だして、「わが御身三十三にならせおはします、御厄(やく)に負けたるとおぼゆる。かかる目にこそあひたりつれ。十善(じふぜん)の床(ゆか)をふんで、万乗の主(あるじ)となる身に、杖(つゑ)をあてられし、いまだ昔もその例なくやあらん。などかまた、おのおの見附かざりつるぞ。一同せられけるにや」と、めんめんに恨み仰せらるるほどに、おのおのとかく陳じ申さるるほどに、

 「さても、君を打ち参らするほどのことは、女房なりと申すとも、罪科かろかるまじきことに候。昔の朝敵の人々も、これほどの不思議は現ぜず候。御影をだに踏まぬことにて候ふに、まさしく杖をまゐらせ候ひける不思議、かろからず候」よし、二条左大臣、三条坊門大納言、善勝寺の大納言、西園寺の新大納言、万里小路の大納言、一同に申さる。

 殊に善勝寺の大納言、いつものことなれば、我ひとりと申して、「さてもこの女房の名字(みやうじ)は誰々(たれたれ)ぞ。いそぎ承りて、罪科のやうをも公卿一同にはからひ申すべし」と申さるる折、御所(ごしよ)、「一人ならぬ罪科は、親類かかるべしや」と御たづねあり。

 「申すに及ばず候。六親(ろくしん)と申して、みなかかり候」など、めんめんに申さるる折、「まさしくわれを打ちたるは、中院(ちゆうゐん)大納言がむすめ、四条大納言隆親が孫、善勝寺の大納言隆顕の卿が姪(めひ)と申すやらん。またずいぶん養子と聞ゆれば、御むすめと申すべきにや。二条殿の御局(つぼね)の御しごとなれば、まづ一ばんに、人の上ならずやあらん」と仰せ出だされたれば、御前(まへ)に候ふ公卿、みな一こゑに笑ひののしる。

 「年の始に、女房を流罪(るざい)せられんも、そのわづらひなり。ゆかりまでそのとがあらんも、なはわづらひなり。昔もさる事あり。いそぎ贖(あが)ひ申さるべし」とひしめかる。その折申す、

 「これ身として思ひよらず候(さぶらふ)。十五日に、あまりに御所つよく打たせおはしまし候ふのみならず、公卿殿上人を召しあつめて、打たせられ候ひしこと、本意(ほい)なく思ひまゐらせ候ひしかども、身数ならず候へば、思ひよるかたなく候ひしを、東(ひんがし)の御方、『このうらみ思ひ返し参らせん、同心せよ』と候ひしかば、『さ承り候ひぬ』と申して、打ち参らせて候ひしときに、われ一人罪にあたるべきに候はず」と申せども、「なにともあれ、まさしく君の御身に杖をあて参らせたるものに、過ぎたることあるまじ」とて、御贖(あが)ひにさだまる。



次田香澄氏の現代語訳

私の立場からの補足

 さて、うまくやったと思っていたところ、夕方のお食事を召し上がるおり、公卿たちが常の御殿に伺候していると、院が仰せ出されるには、「わたしは今年三十三になるが、その厄に負けたと思われる。こういう目にあったのだ。十善の床(ゆか)を踏んで天子となった身に、杖を当てられたなどということは、いまだ昔もその例がないであろう。どうしてまた、おのおの方は気がつかなかったのか。それとも、そなたたち心を合わされてのことなのか」とめいめいに向い恨み言をおっしゃった。

「しおほせたりと思ひてゐたる」(うまくやったと思っていた)というのは、とても上品で面白い表現であり、従来の女性日記文学の伝統とはかけ離れている感じがする。

後深草院(1243〜1304.62歳)
 公卿たちがおのおの色々と釈明を申されるのにつづけて、「それにしましても、君をお打ち申しあげるなどということは、それが女房であると申しても、その罪は軽くないことでございます。昔、朝敵となった人々も、現に、これほどの怪しからぬことはいたしておりません。天子の御身は影さえも踏まないことでございますのに、まさしく杖をお当て申しました奇怪事は、重大な事でございます」といった趣を二条左大臣・三条坊門大納言・善勝寺の大納言・西園寺の新大納言・万里小路の大納言らが、一同で申された。

二条左大臣・三条坊門大納言・善勝寺の大納言・西園寺の新大納言・万里小路の大納言はそれぞれ二条師忠(1254〜1341.88歳)・中院通頼(1241〜1312.72歳)・四条隆顕(1243〜?)・西園寺実兼(1249〜1322.74歳)・北畠師親(1241〜1315.75歳)のこと。この場面は1275年に想定されているので、通頼と師親が35歳、隆顕が後深草院と同じく33歳、実兼27歳、師忠が22歳と時のこととなる。
 ことに善勝寺の大納言はいつものことで、自分一人といった調子に進み出て、「それにしてもその女房の名はだれだれでございますか。急ぎ承って、罪科の趣を公卿一同で協議いたしましょう」と申される。

 院は、「一人だけではない罪の科は、親類にも及ぶであろうか」とお尋ねがある。「申すまでもございません。六親と申してみなかかることでございます」とめいめい申される。

 すると、「まさしくわたしを打った者は、中院大納言の娘、四条大納言隆親の孫、善勝寺の大納言隆顕の卿の、姪と申すのだろうか、また養子として、だいぶ、めんどうを見ているということであるから、御娘と申すべきであろうか、二条殿の御局の御しわざなのだから、まず第一にあなたのことで、他人の身の上ではなかろう」と、こう仰せ出だされたので、御前に控えている公卿たちは、いっせいに大声で笑い騒ぐ。

中院大納言は雅忠(1228〜1272.45歳)のこと。

四条隆親(1203〜1279.77歳)
 「年の初めに女房を流罪にするのも事めんどうだ。縁者までその処分があるのも、さらにめんどうである。昔もこういう例があった。急いで贖いをなされよ」と公卿たちが騒ぎ立てられる。そのおり私は申しあげた。

 「これは私といたしまして思いも寄らないことでございます。十五日に、あまりに御所様が強くお打ち遊ばされたばかりでなく、公卿・殿上人を召し集めてお打たせになられましたことを、残念に存じあげましたけれども、数ならぬ身でございますから、どうしようもございませんでしたところ、東の御方が『この恨みをお仕返し申しましょう。味方になりなさい』とおっしゃいましたから、『承知いたしました』と申してお打ち申しあげたのでございます。ですから、私一人が罪に当らねばならぬことはございません」と申しあげる。

 しかし、「何はともあれ、まさしく君のお体に杖を当て申しあげた罪に過ぎたことはあるまい」と、結局御贖いをすることに決まった。
ここは次田香澄氏が〈解説〉で言われるとおり、「作者が院に抗弁し、東の御方をも引き合いに出して同罪を主張するところなど、遊びの中とはいえ勝気な性格がよく出ていておもしろい。」ところである。
 なお、引き合いに出された「東の御方」(玄輝門院.1246〜1329.84歳)は二条より一回り年上で、この時30歳である。年齢と皇太子煕仁親王(伏見天皇.1265〜1317.53歳)の母という立場からみて、「東の御方」の行動は、事実と考えるには元気が良すぎるというか、はしゃぎすぎのような感じがする。

脇田晴子氏は粥杖事件に関して、「彼女は宮廷儀礼の粥杖(かゆづえ)にことよせて、本気で後深草院を杖で打ち、公卿たちから『不敬』として非難をあびるといったところのある人であった。」などと言われているのであるが(『中世に生きる女たち』)、一体どういう読み方をしたらそんな解釈ができるのか、私には不思議で仕方ない。





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