更新12.1/10 up10.10/10

| 原文(『講談社学術文庫.とはずがたり(上)全訳注』p271) 善勝寺大納言、御使にて、隆親卿のもとへ事の由(よし)を仰せらる。「かへすがへす尾籠(びろう)のしわざに候ひけり。いそぎ贖(あが)ひ申さるべし」と申さる。「日数のび候へばあしかるべし。いそぎいそぎ」と責められて、二十日ぞ参られたる。御事ゆゆしくして、院の御方へ、御直衣(なほし)、かいぐ、御小袖十、御太刀一まゐる。二条左大臣より、公卿(くぎやう)六人に太刀一つづつ、女房たちの中へ、檀紙(だんし)百帖まゐらせらる。 二十一日、やがて善勝寺の大納言、御事つねのごとく、御所へは綾練貫(あやねりぬき)、紫にて、琴・琵琶(びは)をつくりてまゐらせらる。またしろがねの柳筥(やないばこ)に瑠璃(るり)の御盃(さかづき)まゐる。公卿に、馬・牛、女房たちの中へ染物にて行居(ほかゐ)をつくりて、糸にて瓜をつくりて、十合(じふがふ)まゐらせらる。 御酒盛いつよりもおびたたしきに、折ふし隆遍(りゆうへん)僧正参らる。やがて御前(まへ)へ召されて、御酒盛のみぎりへ参る。鯉(こひ)を取り出だしたるを、「宇治の僧正の例あり。その家より生れて、いかがもだすべき。切るべき」よし、僧正に御けしきあり。固く辞退申す。 仰せたびたびになる折、隆顕まな板を取りて僧正の前に置く。ふところより、庖丁(はうちやう)刀・まな箸(ばし)を取り出(い)でて、この側におく。「このうへは」としきりに仰せらる。御所の御前に御盃あり。力なくて香染(かうぞめ)の袂(たもと)にて切られたりし、いとめづらかなりき。 少々切りて、「かしらをば、え割り侍らじ」と申されしを、「さるやういかが」とてなほ仰せられしかば、いとさわやかに割りて、いそぎ御前を立つを、いたく御感(ぎよかん)ありて、今の瑠璃の盃を柳筥に据ゑながら、門前へおくらる。 |
| 次田香澄氏の現代語訳 |
私の立場からの補足 |
| 善勝寺大納言がお使いとなって、祖父隆親(たかちか)卿のもとへ事の次第を仰せられる。「かえすがえすけしからぬ所行でありました。急ぎ贖(あが)い申されるよう」と申された。「日数が延びてはよくありますまい。早く早く」と責められて、(隆親卿は)二十日に贖いをなされた。御贖いの儀式はぎょうさんで、院の御方へ御直衣(のうし)一そろい、御小袖十、御太刀(たち)一つをさし上げた。二条左大臣をはじめ公卿六人に、太刀一つずつ、女房たち一同へ檀紙(だんし)百帖を差上げられた。 |
|
| 二十一日、ひきつづき善勝寺の大納言が、御贖いの儀式を型どおりにととのえ、院へは紫の綾(あや)・練貫(ねりぬき)で琴・琵琶を作ってさし上げられる。また、銀の柳筥(やないばこ)に瑠璃(るり)のお杯を入れてさし上げられる。公卿には馬・牛、女房たち一同に対し染物で行居(ほかい)を作り、糸で瓜(うり)を作って(入れて)十個さし上げられる。 |
|
| 贖いのお酒盛がいつもよりひじょうに盛大に行なわれているところヘ、折から隆遍(りゅうへん)僧正が参上される。すぐ院の御前へ召されて、僧正はお酒盛の場へ参った。鯉が取り出されたのを、院は僧正に向って、「字治の僧正の例がある。包丁の家に生まれて、黙っていることはなかろう。切るように」ということを仰せられる。僧正は固く辞退申しあげる。 |
|
| 仰せがたびたびになったとき、隆顕が俎板(まないた)を持って僧正の前に置く。ついで懐(ふところ)から包丁刀と真魚箸(まなばし)を取り出して、そのそばに置く。「このうえはぜひ」と院はしきりにおっしゃる。院の御前にはお杯がある。僧正はしかたがなくて、香染(こうぞめ)の法衣(ほうえ)の袂(たもと)のままで鯉を切られたのは、たいそう珍らしい見物であった。 少々ばかり切り、「頭はとても割るわけにはまいりません」と申されたところ、「そんなことはいけない」といって、なおもお責めになったから、まことに鮮やかに割って、急いで御前を立たれるのを、院はいたく御賞美なされて、さっきの瑠璃の杯を柳筥に据えたまま僧正へ贈られた。 |
僧侶にしつこく鯉を切ることを命じるというのは、現代人からすれば少し変な感じであり、八嶌正治氏のように「風俗的にも刺戟的で残酷なものを好む時代相である。僧に魚の頭を料理させて喜んだり、女房に男装の蹴鞠装束をつけさせたり、僧体の男女の愛欲図等、通常のものに飽き足らなくなっている。」(「頽廃の魅力」)などと言われる人もいるのであるが、原文を素直に読む限り、この場面が特に「刺戟的で残酷なものを好む時代相」を反映しているとは思えない。 この当時、鯉を切ることは芸能・芸術のひとつなのであり、名人の芸を見て、みんなで愉しんでいるだけと考えるべきだと私は思う。 |
| 補論−「隆へん」は隆弁か隆遍か 「隆へん」に関して、『とはずがたり』の諸注釈書は隆遍説と隆弁説に分かれており、それぞれ次のような説明をしている。 (1)隆遍説
つまり四条家関係者のうち、「僧正」という極めて高い地位にまで昇った「隆へん」に該当する可能性があるのは「隆遍」と「隆弁」に絞られるのであるが、従来は隆遍だと思われていたところ、久保田淳氏が隆遍では年齢的に若すぎると隆弁説を提示し、更にこの隆弁説の根拠を三角洋一氏が補強した、というのが現在の学会の状況のようである。 ここで三角洋一氏が言われている隆遍の年齢は極めて重要であって、「隆遍は作者と同年齢で、正和四年(1315)ころ任権僧正」であれば、最終記事が1306年で、その後間もなく成立したとされている『とはずがたり』の1275年の場面に「隆遍」(権)僧正が登場できるはずがないのである。 もちろん『とはずがたり』では、各場面ごとに、登場人物の官位・官職が正確に書かれている訳ではなく、例えば粥杖事件に登場する北畠師親(1241〜1315.75歳)は、1283年に権大納言となったにもかかわらず、1275年の粥杖事件に「師親の大納言」として登場している。 しかし、一般的には『とはずがたり』の登場人物の官位・官職は概ね時代を反映しているのであって、1315年頃に権僧正になった人が、その40年前に僧正として登場する、などといったことは、いくら何でも考えられないのである。また、ここでの「隆へん」が二条と同年齢だとしたら、若干18歳くらい、僧侶としては修行中・見習い中の身であって、とても後深草院の御前に特に召されるというような特別待遇を受けることは出来ないのである。 結局、隆遍説は極めて無理が多く、成立しがたいのであるが、そうかといって、隆弁説にも難点がある。この隆弁説の難点については、隆弁に関して歴史学者が書いた文章を、いくつか「参考文献」として取り上げた後で、再度検討したい。 ※隆弁(1208〜1283.76歳)についてはこちら(貫 達人氏『鶴岡八幡宮寺−鎌倉の廃寺』)。なお、隆弁は『徒然草』第216段に登場する。 |