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| 原文(『とはずがたり(上)全訳注』p282) まことや、六条殿の長講堂(ちやうかうだう)造り立てて、卯月(うづき)に御わたまし、御堂供養(くやう)は曼陀羅供(まんだらく)、御導師は公豪僧正、讃衆(さんしゆ)二十人にてありしのち、憲実(けんじち)御導師にて定朝堂(ぢやうてうだう)供養、御わたましののちなり。御わたましには、出(い)だし車五輛(りやう)ありし、一の車の左に参る。右に京極殿。撫子(なでしこ)の七つ衣(ぎぬ)、若菖蒲(しやうぶ)の表着(うはぎ)なり。京極殿は藤の五つ衣(ぎぬ)なり。御わたまし三日は白き衣にて、濃き物の具(ぐ)、袴なり。 御壺合せあるべしとて、公卿(くぎやう)・殿上人(てんじやうびと)・上臈(じやうらふ)・小上臈、御壺を分け賜はる。常の御所の東(ひんがし)向きの、二間(ふたま)の御壺を賜はる。とり造る定朝堂の前、二間(ふたま)が通りを賜はりて、反橋(そりはし)を遣水(やりみづ)に小さく美しく渡したるを、善勝寺の大納言夜の間に盗みわたして、わが御壺に置かれたりしこそ、いとをかしかりしか。 |
| 次田香澄氏による現代語訳 |
さて六条殿の長講堂を新しく造られて、四月に御殿移りの儀式があったが、お堂の供養には曼荼羅供(まんだらく)を、御導師公豪僧正、讃衆(さんしゅ)二十人で行なった後、憲実(けんじち)の御導師で定朝堂(じやうちようだう)供養、これは御移りの後である。御移りの御幸には出だし車が五輛あったうち、私は第一の車の左の最上席でお供する。右側には京極殿が乗る。私は撫子(なでしこ)色の七枚重ねの衣(きぬ)、若菖蒲(わかしょうぶ)の表着(うわぎ)を着た。京極殿は藤色の五枚重ねの衣である。御殿移りの儀式の三日間は、みな白い衣に濃い紅の裳(も)・唐衣(からぎぬ)、袴(はかま)である。 御壺合せをなさろうというので、公卿・殿上人、上臈・小上臈の女房がそれぞれ中庭を分けて頂戴した。私は常の御殿の東向きの二間分の庭を頂戴した。御新築の定朝堂の前、二間分をいただいて庭をつくり、反り橋を遣水(やりみず)に小さくかわいらしく渡したところ、善勝寺大納言が夜の間にこっそり盗みとって、自分のほうの庭に置かれたのは、まことに愉快なことだつた。 |
| ※この部分も『増鏡』にそっくり「引用」されているが(『増鏡』の原文はこちら。)、奇妙なことに善勝寺大納言(四条隆顕.1243〜?)の役は平経親(1262〜?)に変わっているのである。この点についての私の解釈はこちら。 なお、「とり造る」という部分は意味が取りにくく、「時継が」の誤写ではないか、との説もある(久保田淳氏・三角洋一氏)。時継(1222〜1294.73歳)は平経親の父。この点に関連して三角洋一氏は「経親は時継の男で、作者より四歳の年少。建治二年右兵衛佐、任権大納言は正和二年(1313)。真犯人が隆顕で、経親が犯人にされたものか」とされている。(『新日本古典文学大系 とはずがたり・たまきはる』p76) 平時継・経親父子は「後深草・伏見天皇の第一の側近ともいうべき存在で、官も例外的に権大納言に昇っている」(本郷和人氏『中世朝廷訴訟の研究』p253)。 |
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☆「私の立場からの補足」は後日掲載します。