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『とはずがたり』巻3.「院、有明の月と作者の対話を聞く」






原文(『とはずがたり(下)全訳注』p26)


 世の中いと煩(わづら)はしきやうになりゆくにつけても、いつまで同じながめをとのみ味気(あぢき)なければ、山のあなたの住まひのみ願はしけれども、心に任せぬなど思ふも、なほ捨て難きにこそと、我ながら身を恨み寝の夢にさへ、遠ざかり奉るべきことのみえつるも、いかに違(ちが)へんと思ふもかひなくて、二月(きさらぎ)も半(なか)ばになれば、大方(おほかた)の花もやうやう気色(けしき)づきて、梅(むめ)が香(か)匂ふ風おとづれたるも飽かぬ心地して、いつよりも心細さも悲しさもかこつ方(かた)なき。

 人召す音の聞ゆれば、何ごとにかと思ひて参りたるに、御前には人もなし。御湯殿(ゆどの)の上にひとり立たせ給ひたるほどなり。
「この程は人々の里住みにて、あまりに寂しき心地(ここち)するに、常に局(つぼね)がちなるは、いづれの方(かた)ざまに引く心にか」
など仰(おほ)せらるるも、例のとむつかしきに、有明の月御参りのよし奏す。

 やがて常の御所(ごしよ)へ入れ参らせらるれば、いかがはせん。つれなく御前に候(さぶら)ふに、そのころ今御所(いまごしよ)と申すは、遊義門院(いうぎもんゐん)いまだ姫宮におはしまししころの御ことなり。御悩み煩はしくて、ほど経(へ)給ひける御祈りに、如法愛染(によほふあいぜん)王行はるべきこと申させ給ふ。またそのほかも、わが御祈りに北斗(ほくと)の法、それは鳴滝(なるたき)にや承る。

 いつよりものどやかなる御物語のほど、候(さぶら)ふも、御心の中いかがとおそろしきに、
「宮の御方の御心地わづらはしくみえさせ給ふ」よし申されたれば、きと入らせ給ふ とて、
「還御(くわんぎよ)待ち奉り給ヘ」
と申したる、その折しも、御前に人もなくて、向ひ参らせたるに、憂かりし月日の積りつるよりうちはじめ、ただ今までのこと、御袖(そで)の涙はよその人目も包みあへぬほどなり。

 何と申すべき言の葉もなければ、ただうち聞きゐたるに、ほどなく還御なりけるも知らず、同じさまなる口説(くど)きごと、御障子(しやうじ)のあなたにも聞えけるにや、しばし立ち止まり給ひけるも、いかでか知らん。

 さるほどに例の、人よりははやき御心なれば、さにこそありけれと推(すゐ)し給ひけるぞ、あさましきや。入らせ給ひぬれば、さりげなきよしにもてなし給へれども、しぼりも敢(あ)へざりつる御涙は、包む袂(たもと)に残りあれば、いかが御覧じとがむらんとあさましきに、



次田香澄氏による現代語訳

 いろいろな人との関係がたいそうむずかしく、院との間柄もやりにくいようになってゆくにつけても、いつまで同じ物思いばかりすることだろうと、味気ないので、この世を離れて山の中にでも住みたいという思いはしきりにするけれども、またそうもいかないと考えるのも、やはり自分でまだ世を捨てきれないのかと、われとわが身を恨めしく、そんなことを思いつつ寝る夢にまで、院との間柄が遠ざかるような前兆がみえ、その夢をなんとかしてよい方に変えようとしても、すこしもかいがなくて、二月も半ばになった。大方の花の木々も、だんだん咲くきざしを見せ、梅の香のにおう春風のおとずれるのも、心に満たない気がして、いつもより心細さも悲しさもだれに訴えようがない。

 人をお呼びになる院の声が聞えるので、何ごとかと思ってお側にまいると、御前にはだれもいない。御湯殿(おゆどの)の上にひとりお立ちになっているのだった。
「このごろは近習(きんじゅ)の女房たちも里に退(さが)っていて、あまりに寂しい心地がするのに、おまえまでいつも局(つぼね)にばかりいて出てこないのは、どちらの方に心を引かれてなのか」
などおっしゃるのも、いつものこととゆううつだったが、そのとき有明の月がおいでになられた由を申しあげにきたものがある。

 院はすぐに常の御殿へ入れ申されるのでどうしようもなく、そ知らぬ体(てい)で御前に控えていた。そのころ今御所と申しあげていた方は、遊義門院のまだ姫宮でいらっしゃったころの御ことである。この方の、御病気がはかばかしくなくて長びかれたため、院は御祈りとして如法愛染(にょほうあいぜん)王法の修法(ずほう)を行うようにと、有明に申される。またこのほかにも、院御自身のための御祈りに北斗の法を、これは鳴滝(なるたき)の寺(般若寺)のほうで承ったようである。

 いつもよりゆっくりお話しになっている間、私がお側に侍(はべ)っているのも、有明のお心の中はどうだろうかと恐ろしいが、そのうち姫宮の御容態がお悪いようにみえるむねをだれかが申しあげられたので、院は急いで姫宮のほうへおいでになる。私は有明に、
「お帰りをお待ちくださいませ」
と申しあげる。

 そのときは他にだれもいなくて、有明と対座申していると、つらい月日が積もったことをはじめとして、今日までのことをおっしゃられて、お袖の涙は他の人目も隠しきれないほどである。

 なんと申しあげる言葉もないので、ただ伺っていると、ほどなく院がお帰りになられたのも知らずに、同じ調子の口説(くど)きごとは襖(ふすま)のあちらにも聞えたのであろうか、院がしばらく立ち止まっていられたのも、知るよしもない。

 そのうちに例の、他の人よりははやくお気のまわる院のことだから、そうであったかと事情を推察なさったのは、あさましいことであった。院がお部屋におはいりになったので、有明はさりげないような素振りをなさるが、しぼりかねるほどのお涙は、隠す袂(たもと)にもあまるくらいなので、院がどう見とがめられるだろうかと私はただ呆然(ぼうぜん)としていた。




☆巻三の冒頭のこの場面について、次田香澄氏は「弘安四年(作者二四歳)か。ここから四年間の年次は、本文の記事としては計算が合うが、他の記録の事実との関係等に多少のずれと不審が残る。いちおう本文の記事を基として年次を定めた。」とされ、三角洋一氏は「作品の内部では年次の空白はなく、巻二巻末の翌年、建治四年(弘安元年。一二七八)と見られるが、年立て上問題があり、いちおう弘安四年、作者二四歳と考えておく。」(『岩波新日本古典文学大系』p115)と述べられている。
 また、久保田淳氏も、巻三について、「事実朧化のための作為が著しいらしく、年次推定は困難であるが、一応、弘安四年(一二八一)春から同八年三月まで、作者二十四歳から二十八歳までのことが回想されていると見ておく。」(『完訳日本の古典.とはずがたり(一)』p144)とされており、多くの国文学者が、多少の疑問を抱きつつも、この冒頭の場面は1281年2月の出来事だと考えているのが、現在の学説の状況である。
 しかし、1281年といえば、言うまでもなく二度目の蒙古襲来(弘安の役)のあった年であり、元の大軍が現実に姿を現したのは六月であったとはいえ、二月の時点でも、幕府側が警戒を強めていたのはもちろん、朝廷側でも、目前に迫った再度の蒙古襲来に備えて、諸社諸寺での祈祷を始めており、それは閏七月の元軍敗退まで極めて活発に続くのである。
 つまりこの時期は、文字通り未曾有の国家的危機を前にして異常な緊張感が高まっていた時期であって、そうした時期に、後深草院や仁和寺御室性助法親王のような立場の人が、『とはずがたり』巻三で展開される異常な行動を現実にとっていたとは、私には想像すらできない。
 多くの著名な国文学者や歴史学者、あるいは小説家などの知識人が、当時の貴族社会は極めて退廃的で、元寇のような危機的状況にあっても、その危機に責任をもって対処しようとしなかったとし、その証拠として『とはずがたり』に言及するのであるが、私には、退廃に陥っているのは当時の貴族社会の人々ではなく、『とはずがたり』のような書物を妄信する現代の知識人の側ではないかと思われる。
 なお、『とはずがたり』の「年立て」についての私の考え方はこちら


☆弘安の役当時の状況については、以前、『増鏡』に記された「殉国の御祈願」をめぐる奇妙な記述を考察する際にいくつかの文献を検討した。その一例はこちら。(今谷明氏「殉国の御祈願」





「私の立場からの補足」は後日掲載します。


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