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『とはずがたり』巻3.「法輪寺に籠る、嵯峨殿より院の使」






原文(『とはずがたり(下)全訳注』p77以下)


 十月(かんなづき)のころになりぬれば、なべて時雨(しぐれ)がちなる空のけしきも、袖(そで)の涙にあらそひて、よろづ常の年々よりも、心細さも味気(あぢき)なければ、まことならぬ母の、嵯峨に住まひたるがもとへまかりて、法輪(ほふりん)に籠(こも)りて侍れば、嵐の山の紅葉も、憂き世をはらふ風にさそはれて、大井川の瀬々に波よる錦と覚ゆるにも、いにしへのことも公私忘れがたき中に、後嵯峨の院の宸筆(しんぴつ)の御経の折、めんめんの姿、捧げ物などまで、かずかず思ひ出でられて、うらやましくも返る波かなと覚ゆるに、ただここもとに鳴く鹿のねは、誰(た)がもろ声にかとかなしくて、

わが身こそいつも涙のひまなきに何をしのびて鹿の鳴くらん

 いつよりももの悲しき夕暮に、故ある殿上人(てんじやうびと)の参るあり。誰(たれ)ならんとみれば楊梅(やまもも)の中将兼行なり。局(つぼね)のわたりに立ちよりて案内(あんない)すれば、いつよりも思ひ寄らぬ心地するに、 「にはかに大宮院快からぬ御こととて、今朝よりこの御所へ御幸(ごかう)ありけるほどに、里を御たづねありけるが、これにとてまた仰せらるるぞ。女房も御参りなくて、にはかに御幸あり。宿願ならばまた籠るべし。まづ参れ」といふ御使なり。

 籠りて五日になる日なれば、いま二日果てぬも心やましけれども、車をさへ賜はせたるうヘ、嵯峨に候(さぶら)ふを御頼みにて、人も参らせ給はぬよし、中将物語すれば、とかく申すべきことならねば、やがて大井殿の御所へ参りたれば、みな人々里へ出でなんとして、はかばかしき人も候はざりつるうへ、これにあるを御頼みにて、両院御同車にてなりつるほどに、人もなし。御車の尻(しり)に、西園寺の大納言参られたりけるなり。 大御所(おほごしよ)より、ただ今ぞ供御(くご)参るほどなる。



次田香澄氏による現代語訳

私の立場からの補足

 十月のころになると、とかく時雨(しぐれ)がちな空の様子も、袖の涙と競い合うようで、すべていつもの年より心細さもどうしようもないので、継母(ままはは)が嵯峨に住まっているところへ退出し、法輪寺にこもっていた。

 嵐山(あらしやま)の紅葉も憂き世を掃(はら)う風に誘われて散って、大井川の瀬々に波よる錦と思われるにつけても、昔の事も公・私にわたり忘れ難いなかに、後嵯峨院宸筆(しんぴつ)の御経の供養の折の、旧知のたれかれの姿や捧物(ささげもの)などまで、かずかず思い出されて、「羨(うらや)ましくも返る波かな」と思われるのに、すぐその辺りで鳴く鹿の声は、だれとともに泣く声であろうかと悲しくて、

わが身こそいつも涙のひまなきに何をしのびて鹿の鳴くらん (わが身の方こそいつも涙の乾く間もないのに何を慕って鹿が鳴くのであろう)

国文学者の年立てによれば弘安4年(1281)10月、後深草院二条24歳のときの話である。この年の正月に姫宮(遊義門院)病気平癒の祈祷のために「有明の月」が後深草院御所に来て、後深草院が二条との関係を知り、後深草院は二条が「有明の月」の子を懐妊するように図り、7月に真言の御談義があり、11月6日に出産である。嵯峨大井殿での奇怪な出来事は出産直前の10月の話となっている。ちなみに弘安4年といえば、言うまでもなく第二次蒙古襲来(弘安の役)のあった年である。
継母は雅忠の後妻のことで、巻一には「北の方」として出てくる。その箇所はこちら(「父邸に退出」)及びこちら(「傅仲綱・継母ら出家、弔問」)。
法輪寺は嵐山にあり、行基の開基と伝えられる寺。本尊は虚空蔵菩薩。
「後嵯峨の院の宸筆の御経の折」については新岩波体系(三角洋一氏)の注に「文永七年(1270)十月七日から十一日まで、父帝、土御門院の四十回忌に、後嵯峨院が嵯峨殿において宸筆の法華経を供養し、法華八講を催された。宸筆御八講記ほか数種の記録が残されている。」とある。後深草院二条が13歳の出来事であって『とはずがたり』には描かれていないが、『五代帝王物語』は詳細な記述がある。
 いつもより物悲しい夕暮に、身分のありそうな殿上人(てんじょうびと)の参るのがあった。だれであろうかと見ると、楊梅(やまもも)の中将兼行である。私の局(つぼね)の辺りに取次ぎを求めるので、いつもよりも思いがけない心地がするが、「にわかに大宮院が御不快とのことで、今朝からこの大井殿の御所(ごしょ)へ御所様の御幸があったので、(御出発に当り)あなたの里をお尋ねになったが、ここにあなたがいるとわかったので、またお召しになるのです。女房もお連れにならないで、急ぎ御幸になりました。『宿願ならばまたこもるがよい。はやく参りなさい』」 という御使である。

 こもってからちょうど五日になる日なので、あと二日残っているのも残念だけれど、車まで下された上に、私が嵯峨にいるのを頼みになさって、他の女房もお連れにならなかった由を、中将が語るので、とかく申し上げるべきことではないから、直ちに大井殿の御所へ伺った。

 すると、(お出掛けのときには)女房たちはみな里へ出ようとしていて、ちゃんとした者もいなかったうえ、私がここにいるのを頼みにされて、両院が御同車でおいでになったので、女房もいない。御車の後部には西園寺の大納言が奉仕されたのだった。大宮院方からただ今召上り物をさし上げるところである。

楊梅兼行(1254〜?)は後深草院二条より四歳上。後、民部卿従二位に至り、後深草院崩御により出家。

大井殿は嵯峨殿の中、大井川に面した殿舎。







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