更新12.3/31 up12.3/23


原文を見る
『とはずがたり』巻3.「両院の傍らに宿直、亀山院の贈物」






原文(『とはずがたり(下)全訳注』p88以下)


 「いと御人少なに侍るに、御宿直(とのゐ)つかうまつるべし」とて、二所(ふたところ)御よるになる。ただ一人候(さぶら)へば、「御足に参れ」など承るもむつかしけれども、誰に譲るべしとも覚えねば、候ふに、「この両所の御側に寝させさせ給へ」と、しきりに新院申さる。

「ただしは、所せき身のほどにて候とて、里に候ふを、にはかに人もなしとて参りて 候ふに、召し出でて候へば、あたりも苦しげに候。かからざらん折は」など申さるれども、

「御側にて候はんずれば、あやまち候はじ。女三の御方をだに御許されあるに、なぞしもこれにかぎり候ふべき。わが身は、いづれにても御心に掛り候はんをば、と申しおき侍りし、そのちかひもかひなく」 など申させ給ふに、折ふし按察使(あぜち)の二品(ほん)のもとに御わたりありし前(さき)の斎宮(さいぐう)へ、「いらせ給ふべし」など申す。宮をやうやう申さるるほどなりしかばにや。「御側に候へ」と仰せらるるともなく、いたく酔ひすぐさせ給ひたるほどに、御よるになりぬ。

 御前にもさしたる人もなければ、ほかへはいかがとて、御屏風(びやうぶ)うしろに候ふに、ありきなどせさせ給ふも、つゆ知り給はぬぞあさましきや。明方ちかくなれば、御側へ帰り入らせ給ひて、おどろかしきこえ給ふにぞ、はじめておどろき給ひぬる。「御息もなさに、御添臥(そへぶ)しも逃げにけり」など申させ給へば、「ただ今までここに侍りつ」など申さるるもなかなか恐ろしけれど、をかせる罪もそれとなければ、頼みをかけて侍るに、とかくの御沙汰(さた)もなくて、また夕方になれば、今日は新院の御分とて、景房が御事したり。

 「昨日西園寺の御雑掌(ざしやう)に、今日景房が、御所の御代官ながら並び参らせたる、雑掌柄わろし」など、人々つぶやき申すもありしかども、御事は、うちまかせたる式の供御(くご)、九献(くこん)など、常のことなり。女院の御方(かた)へ、染物にて岩を作りて、地盤に水の紋をして、沈(ぢん)の舟に丁子(ちやうじ)を積みて参らす。一院へ銀(しろがね)の柳筥(やないばこ)に沈の御枕(まくら)を据ゑて参る。 女房たちのなかに糸綿にて山滝の景色などして参らす。男たちの中ヘ、色革染物にて柿作りて参らせなどしたるに、「殊に一人この御方に候(さぶら)ふに」など仰せられたりけるにや、唐綾(からあや)・紫むら濃(ご)十づつを、五十四帖(でふ)の草子(さうし)に作りて、源氏の名を書きて賜(た)びたり。御酒盛(さかもり)は夜べにみな事ども尽きて、今宵(こよひ)はさしたることなくて果てぬ。春宮(とうぐう)の大夫(だいぶ)は、風の気(け)とて今日は出仕(すし)なし。「わざとならんかし」「まことに」など沙汰(さた)あり。

 今宵も桟敷殿(さじきどの)に、両院御渡りありて供御(くご)もこれにて参る。御陪膳(はいぜん)両方をつとむ。夜も一ところに御よるになる。御添臥(そへぶ)しに候(さぶら)ふも、などやらんむつかしく覚ゆれども、のがるるところなくて宮仕ひゐたるも、いまさら憂き世の習ひも思ひ知られ侍る。

 かくて還御(くわんぎよ)なれば、これは、「法輪(ほふりん)の宿願(しゆくぐわん)も残りて侍るうへ、今は身もむつかしきほどなれば」と申して、とどまりて里へ出でんとするに、両院御幸(ごかう)、同じやうに還御あり。一院には春宮大夫、新院には洞院(とうゐん)の大納言ぞのちのちに参り給ふ。



次田香澄氏による現代語訳

 「たいそう人少なですから御宿直申しあげましょう」といって新院は一院といっしょにお寝(やす)みになる。私はただ一人控えていると、「脚(あし)をもんでくれ」などおっしゃるのもわずらわしいけれど、だれに譲れる役とも思われないので、御奉仕していたところ、「二条をこの二人の側にお寝させ下さい」としきりに新院は申される。一院は、「だがしかし、このごろ身重と申しまして里にいましたのを、こちらに女房もいないというので参ったのを召し出したのですから、立居も苦しそうです。こんなふうでない折でしたら」と申されるが、

「兄上のお側ですから過ちはございますまい。(『源氏物語』の朱雀院は、皇女)女三の宮をさえ、(弟の光源氏に)お許しになられたのに、なんでこの人(二条)だけに限りましょう(もっと許して下さってもよいのに)。私はどの女房でもお気に召した者はどうぞ、と申しあげてありましたのに、その約束もかいなく」などと新院はおっしゃられる。

 ちょうどそのころ、按察使(あぜち)の二品(ほん)の所においでになられた前(さき)の斎宮へ、「こちらへおいで下さい」と申される。斎宮を院がまたさまざまに言ってお口説(くど)きになる頃だったからだろうか。新院は「側にいなさい」とおっしゃられるともなく、ひどく酔い過ごされていたので、おやすみになってしまった。

 御前にはたいした人もいないので、ほかの部屋へ退(さが)るわけにもいかず、御屏風(びょうぶ)のうしろに控えていると、一院が他所(よそ)をお歩きになったりなさるのも、すこしも御存じでないとは、なんともやりきれないことだった。明け方近くなると、新院のお側に帰っておいでになり、お起こしなさったので、初めてお目覚めになった。「よくおやすみで、お息もないほどなので、御添寝の者も逃げてしまいましたよ」と申されると、「たった今までここにおりましたよ」と申されるのもひどく恐ろしいけれど、自分から犯した罪もないことだから、ただ頼みをかけていたところ、格別の仰せもなくて、また夕方になる。今日は新院の御分担というので、景房が御酒宴の用意をした。

 「昨日西園寺がお世話役だったのに、今日は景房が新院の御代理とはいいながら、西園寺と同列であるのは、世話役の身分が釣合わない」など人々の中には陰口をいう者もあったが、御酒宴はいつものきまった召し上がり物、お酒など、例のとおりである。染物で岩を作って地盤に水紋の模様を出し、沈香(じんこう)の舟に丁子香(ちょうじこう)を積んで、大宮院の方へさし上げる。一院へは、銀の柳筥(やないばこ)に沈香の御枕(まくら)を据えてさし上げる。

 女房たちへは、糸綿で山滝の景色などを作って贈り、男たちへは、色革・染物で柿を作って贈りなどされたが、「特別に二条一人が院の御方にお供をしてきているから」など仰せられたのか、私へは唐綾(からあや)、紫むら濃(ご)の染物十ずつを、五十四帖の草子の形に作って、『源氏物語』の巻の名を書いて、下された。御酒盛はゆうべでみな興が尽きて、今宵はたいしたこともなく終った。春宮(とうぐう)の大夫(だいぶ)は風邪気(かぜけ)だといって、今日は出仕がない。「仮病(けびょう)だろうよ」「いや本当だ」などと噂があった。

 今宵も桟敷殿(さじきどの)に両院がお渡りになって、お食事もここで召し上がった。私は両院のお給仕をつとめた。夜も一ところでおやすみになる。その御添臥しにお仕えするのも、なんとなくわずらわしく思われるけれども、逃れようもなく奉仕しているにつけても、今さら憂き世の習いも思い知られる。

 このようにして両院は御帰還になるが、私は、「法輪寺参籠の宿願も残っておりますうえ今は体も思うようにはなりませんので」と申しあげて、残って里へ退出することにした。両院は同時にお帰り、一院には春宮の大夫、新院には洞院の大納言が、それぞれお車に奉仕された。



☆『とはずがたり』の中でも近衛大殿の話と並ぶ屈指の変態的場面であるが、その評価の一例はこちら。(村松剛氏「『とはずがたり』の世界」)




工事中

トップページ 原文を見る 前の場面 次の場面