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『とはずがたり』巻3.「乳母の家に有明・院の来訪」






原文(『とはずがたり(下)全訳注』p98以下)


 いつしか有明の御文(ふみ)あり。程近きところに、御あひていする稚児(ちご)のもとへ入らせ給ひて、それへ忍びつつ参りなどするも、たび重なれば、人の物言ひさがなさは、やうやう天の下のあつかひぐさになると聞くもあさましけれど、「身のいたづらにならんもいかがせん。さらば片山里の柴の庵(いほり)のすみかにこそ」など仰せられつつ、通ひありき給ふぞいとあさましき。

 かかるほどに、十月(かんなづき)の末になれば、常よりも心地も悩ましくわづらはしければ、心細く悲しきに、御所よりの御沙汰(さた)にて、兵部卿(ひやうぶきやう)その沙汰したるも、つゆのわが身のおきどころいかがと思ひたるに、いといたう更くるほどに、忍びたる車の音して門たたく。

 「富の小路殿より、京極殿の御局(つぼね)の御わたりぞ」といふ。いと心得ぬ心地すれど、あけたるに、網代(あじろ)車にいたうやつしつつ、入らせおはしましたり。思ひ寄らぬことなれば、あさましくあきれたる心地するに、「さしていふべきことありて」とて、こまやかに語らひ給ひつつ、

「さてもこの有明のこと、世に隠れなくこそなりぬれ。わがぬれぎぬさへ、様々をかしきふしにとりなさるると聞くが、よによしなくおぼゆるときに、このほど、こと方にこころもとなかりつる人、かの今宵亡くて生れたると聞くを、あなかまとて、いまださなきよしにてあるぞ。ただ今もこれより出で来たらんを、あれへやりて、ここのをなきになせ。さてそこの名は、少し人の物言ひ草も静まらんずる。すさまじく聞くことのわびしさに、かくはからひたるぞ」

とて、明けゆく鳥の声におどろかされて帰り給ひぬるも、浅からぬ御志はうれしきものから、昔物語めきて、よそに聞かん契りも、憂かりしふしのただにてもなくて、たぴ重なる契りも悲しく思ひゐたるに、いつしか文(ふみ)あり。

 「今宵のしきは、珍らかなりつるも忘れがたくて」とこまやかにて、

荒れにけるむぐらの宿の板びさしさすが離れぬ心地こそすれ

とあるも、いつまでと心細くて、

あはれとてとはるることもいつまでと思へば悲し庭のよもぎふ



次田香澄氏による現代語訳

 するとはやくも有明のお手紙があった。程近い所で、有明の御寵愛の稚児(ちご)の家においでになって、私がそこへ忍んで伺ったりするのも、度(たび)重なると、人の口の意地悪さには、だんだん世間の噂の種になると聞くのも、我ながらあさましいけれど、「わが身がこれで破滅しても仕方がない。そうなったら片山里の柴の庵(いおり)の住みかで(いっしょに暮らそう)」などとおっしゃられつつ、通って来られるのは、ほんとうにどうしようもないことである。

 そうしているうちに、十月の末になると、いつもより気分も悩ましく調子がよくないので、心細く悲しい。院からのお指図で祖父隆親が出産の用意をしてくれたけれど、それにつけても露のようにはかないわが身の処置をどうしたらよいかと思いあぐんでいたところへ、たいそう夜が更けたころ、忍びやかな車の音がして、門をたたくものがある。

 「富小路殿から、京極殿の御局(つぼね)のお越しですぞ」という。まったく合点のゆかぬ心地がするけれど、門を明けてみると、網代(あじろ)車にたいそうやつして、院のお忍びの御幸であった。思いがけないことなので、おどろいてただ茫然としていると、「とくに言わねばならぬことがあって」といって、濃(こま)やかにいろいろお話をなさって、

「ところでこの有明のことは、世に広く知れわたってしまった。わたしの知らぬことまで、いろいろとおかしなふうに取沙汰されていると聞くのが、はなはだ不本意なことと思っていたところ、最近ほかの所で子供の生れそうだった女が、今宵死産したと聞いたので、『言うな』と制して、まだ生れないことにしてあるのだ。ただ今にも、向うで生れたら、それをここへ遣って、ここのを死んだことにせよ。そしたらおまえについての噂も、すこしは静まるだろう。おもしろからぬ気持で聞いているのがやり切れないので、このように取計らったのだ」

とて、明けゆく鳥の声に驚かされてお帰りになる。浅からぬお志はうれしいものの、(生れた子がよその子として育てられるというのは)昔物語めいて、わが子を他人の子として聞く宿縁もつらく、秘密の契りの末がただではすまず、それが度重なるわが身の運命も悲しく思っていたところ、さっそくお手紙があった。

 「昨夜の訪れ方は珍しかったのも忘れ難くて」とこまやかで、

荒れにけるむぐらの宿の板びさしさすが離れぬ心地こそすれ(あの荒れた家の板びさしも、お前がいると思えばやはり見捨て難い気持がすることだ)

とあるのも、こうした御気持もいつまで続くことやらと心細くて、

あはれとて問はるることもいつまでと思へば悲し庭の蓬生(この荒れた家にいる私にあわれを掛けて下さるのも、いつまで続くことかと思えば、悲しゅうございます。



☆後深草院二条の祖父隆親が登場してくるが、『とはずがたり』を事実の記録と考えれば、これは極めて奇妙である。即ち、国文学者の年立てでは、この場面は弘安の役のあった弘安4年(1281)10月のこととされているが、『公卿補任』によれば、隆親は二年前の弘安2年9月6日に77歳で亡くなっているのである。




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