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『とはずがたり』巻3.「有明の男子を生む」






原文(『とはずがたり(下)全訳注』p103以下)


 この暮れには、有明の光も近きほどと聞けども、そのけにや、昼より心地も例ならねば、思ひ立たぬに、更(ふ)け過ぎてのちおはしたるも、思ひ寄らずあさましけれど、心知るどち二三人よりほかは立ちまじる人もなくて、入れ奉りたるに、夜べの趣を申せば、「とても身に添ふべきにはあらねども、ここさへいぶせからんこそ口惜しけれ。かからぬためしも世に多きものを」とて、いと口惜しと思したれども、「御はからひの前はいかがはせん」などいふほどに、明けゆく鐘とともに、をのこ子にてさへおはするを、何の人かたとも見えわかずかはゆげなるを、膝にすゑて、「昔の契り浅からでこそかかるらめ」など、涙もせきあへず、大人(おとな)に物を言ふやうにくどき給ふほどに、夜もはしたなく明けゆけば、名残(なごり)をのこして出で給ひぬ。

 この人をば仰せのままに渡し奉りて、ここには何の沙汰もなければ、「露消え給ひにけるにこそ」などいひてのちは、いたく世の沙汰も、けしからざりし物言ひもとどまりぬるは、思(おぼ)し寄らぬくまなき御志は、公私ありがたき御ことなり。御心知る人のもとより沙汰し送ることども、いかにも隠れなくやといとわびし。



次田香澄氏による現代語訳

 この夕暮には有明も近い所にいられると聞くけれども、産気であろうか昼ごろから気分も普通でないので、こちらから伺うことも思い立たなかったところ、夜が更け過ぎてから御自身おいでになったのも、思い寄らず驚いたけれど、事情のわかっている者たち二三人よりほかは出はいりする人もいないので、お入れ申して、昨夜の院のお話の趣を申しあげると、「所詮、子どもをわたしの所で育てるわけにはいかないだろうが、あなたの所でさえ逢えないで心晴れないのはまことに残念だ。こうでない例も世間には多いものを」といって、大変口惜しくお思いだけれども、「御所様のお計らいの上はどうしようがございましょう」 と申しあげる。

 そのうち夜明けの鍾とともにお生れになったのは、男の子でさえいらっしゃるのに、まだどういう顔かたちともはっきりわからぬかわいげな子を、有明は膝に据えて、「前世からの深い因縁があってこそ、こうして生れてきたのだろうに」など、涙も押えきれず、大人に物を言うように繰返しいわれる。やがて夜も無情に明けてゆくので、名残を残してお帰りになった。

 この子を院の仰せのままにお渡し申しあげて、こちらへはなんの沙汰もないので、「御子は露とお消えになったのだろう」などと周囲ではいって、その後は、世間の評判も、ひどかった噂もすっかり止んでしまったにつけても、思い及ばぬところもない院の御配慮は公にも私にもありがたい御ことであった。御事情を知っている人のところから、子どもを渡した先へ仕送りをすることなど、いかにも世間に隠れないことだろうと、まことにつらい。



☆国文学者の年立てに従って後深草院二条の妊娠・出産関係の記事をまとめると次の通りである。

(1)文永10年(1273)2月10日、後深草院皇子を出産。(16歳) 翌年、死亡。
(2)文永11年(1274)9月、「雪の曙」の女児を出産、「雪の曙」が連れ去る。流産と取り繕う。(17歳)
(3)建治2年(1276)12月頃、懐妊。(19歳) ただし出産の記事なし。
(4)弘安4年(1281)11月6日、「有明の月」の立ち会いのもと、「有明の月」の男児を出産。(24歳) 後深草院の指示に従う。
(5)弘安5年(1282)8月、「有明の月」の第二子(男児)を出産。(25歳)

 (1)は妊娠中の行動が初産を迎える女性としては極めて奇妙であり、(2)は元寇(文永の役.同年10月)直前の大変な時期に「雪の曙」こと西園寺実兼が関東申次という重要な職務を放擲して愛人の出産の面倒を見ていたという点が変である。(これらについての私の考え方はこちら。(細川涼一氏「洛東山科における寺院の成立と展開)
 (3)は出産の記事がないのが変であり、(4)は「有明の月」との関係を取り持った後深草院の行動が変態的で奇怪であり、(5)は11月6日に出産したばかりの二条と「有明の月」が同月13日に最後の関係をもって妊娠してしまうのが異常である。それは医学的にありえない事態である。
 総じて『とはずがたり』の妊娠・出産関係の記事は奇妙な点が多すぎる。




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