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| 原文(『とはずがたり(下)全訳注』p26) 火ともすほどに還御(くわんぎよ)なりぬるのち、殊更(ことさら)しめやかに、人なき宵(よひ)のことなるに御足など参りて御殿(おんとの)ごもりつつ、「さて思ひのほかなりつることを聞きつるかな。さればいかなりけることにか。いはけなかりし御ほどより、かたみにおろかならぬ御事に思ひ参らせ、かやうの道には思ひ掛けぬことと思ふに」とて、うちくどき仰せらるれば、「さることなし」と申すとも、かひあるべきことしあらねば、あひ見しことの始めより、別れし月の影まで、つゆくもりなく申したりしかば、 「まことに不思議なりける御契りかな。さりながら、さほどに思し召しあまりて、隆顕(たかあき)に道芝せさせられけるを、情なく申したりけるも、御恨みの末もかへすがへすよしなかるべし。昔のためしにも、かかる思ひは人をわかぬことなり。柿の本の僧正(そうじやう)、染殿(そめどの)の后(きさき)の物怪(もののけ)にて、あまた仏菩薩の力尽し給ふといへども、つひにはこれに身を捨て給ひにけるにこそ。志賀寺の聖(ひじり)には、ゆらぐ玉の緒と情を残し給ひしかば、すなはち一念の妄執(まうしゆ)をあらためたりき。 この御けしきなほざりならぬことなり。心得てあひしらひ申せ。われこころみたらば、つゆ人は知るまじ。このほど祗候(しこう)し給ふべきに、さやうのついであらば、日ごろの恨みを忘れ給ふやうにはからふべし。さやうの勤めの折からは、悪(あ)しかるべきに似たれども、我深く思ふ子細(しさい)あり。苦しかるまじきことなり」 とねんごろに仰せられて、「何ごとにも我に隔つる心のなきにより、かやうにはからひいふぞ。いかがなどは、かへすがへす心の恨みもはるな」 と承るにつけても、いかでかわびしからざらん。 「人より先に見染めて、あまたの年を過ぎぬれば、何ごとにつけても、なほざりならず覚ゆれども、何とやらん、わが心にもかなはぬことのみにて、心の色のみえぬこそいと口惜(くちを)しけれ。わが新枕(にひまくら)は故典侍大(すけだい)にしも習ひたりしかば、とにかくに人知れず覚えしを、いまだいふかひなきほどの心地(ここち)して、よろづ世の中つつましくて、明け暮れしほどに、冬忠・雅忠などに主(ぬし)づかれて、ひまをこそ人わろく窺ひしか。腹の中にありし折もこころもとなく、いつかいつかと、手のうちなりしより、さばくりつけてありし」 など、昔の古ごとさへいひ知らせ給へば、人やりならずあはれも忍びがたくて、明けぬるに、今日より御修法(しゆほふ)始まるべしとて、御壇所いしいしひしめくにも、人知れず、心中には物思はしき心地すれば、顔の色もいかがと、我ながらよその人目もわびしきに、すでに御参りといふにも、つれなく御前に侍るにも、御心のうちいとわびし。 |
| 次田香澄氏による現代語訳 |
火をともすころ、有明はお還(かえ)りになった。その後は格別しんみりとして、人もいない宵(よい)のことなので、お足などをおさすり申していると、おやすみになったまま院は、「さても思いのほかのことを聞いたものだ。一体どうしたことなのだ。あの方とは幼いころからたがいに並々ならずお親しくしてきたが、このような男女の事には心を掛けない方だと思っていたのに」 とて、細々とおっしゃる。 「さような事はございません」と申しあげても、しかたのないことなので、有明と逢った事のはじめから、いったん別れた暁の事まで、すこしも隠さず申しあげた。 院は、 「まことに思いも寄らぬ御宿縁だったのだなあ。しかしそれほどまでに思い余られて、隆顕に手引きをおさせになったのを、おまえが情けなく申したのは、お恨みの行未もどうだろうか、かえすがえす困ったことだと思う。昔の例にも、こういう思いは人の区別によらないものだ。柿本(かきのもと)の紀(き)僧正は、染殿(そめどの)の后の物の怪(け)となり、多くの仏や菩薩がカをお尽しになったけれども、ついにはこのために身を滅ぼしてしまわれたことだ。志賀寺の聖(ひじり)には、京極の御息所(みやすどころ)が『ゆらぐ玉の緒』と情を示されたから、聖はすぐに思い込んでいた妄念を改めたのだった。 有明の御様子は並々なものではない。よく心得てお相手申しなさい。わたしが事情を承知していれば、絶対に人にはわからないだろう。このごろ御祈祷に御所に御滞在になるはずだから、よい折があったら日ごろの恨みをお忘れになるよう計らいなさい。このような御祈祷の際では折が悪いようにも思われるだろうけれども、わたしは深く考えているわけがある。差支えないことだ」と、ねんごろにおっしゃる。 「おまえは、どんな事にもわたしに隔て心がないから、このように計らって言うのだ。どうだろうかなどと思わずに、くれぐれも有明のお心の恨みが晴れるように」といわれるにつけても、私はどうして胸が痛まないことがあろう。 「人より先におまえを見染めて、多くの年月を過ごしてきたから、何ごとにつけてもおまえをいい加減に思ったことはないが、なんとなくわたしの思うとおりにならない事ばかりで、その気持を表わせないのは、まことに残念だ。わたしの新枕はおまえの母(故大納言典侍)から教えてもらったので、とにかくにも人知れず思いを寄せていたが、まだ少年の年ごろで、大人たちに気をつかいながら明け暮れしていたその間に、おまえの母は冬忠や雅忠などの愛人になってしまって、わたしはみっともなくも、隙(ひま)をうかがってこっそり逢っていたものだよ。おまえが母の胎内にあった間も、気に掛かり、生れてからも、まだ赤ん坊のときから、はやく大きくならないかと楽しみに、あれこれかまったりしていたものだよ」 などと、昔の母とのことまでお話しになるので、こうなった仕儀は自分の責任とはいうものの、あれこれ複雑な思いでやりきれなかった。 そのうち夜も明けたが、今日から御修法(しゅほう)が始まるというので、御壇所をつぎつぎに用意し騒ぐにつけても、人知れず心中では物思わしい心地がするので、顔色もどう見えるだろうと、我ながら人のみる目もつらい。すでに有明が参られるというときにも、そ知らぬふうで院の御前に侍っていたが、院のお心のうちを思うと、まことにやりきれなかった。 |
| ☆後深草院の「新枕」の相手が二条の母、「大納言典侍」であり、後深草院は二条が生まれる前から、二条に特別な思いを寄せていたという話は、巻三になって初めて、後深草院の述懐として出てくる。『源氏物語』めいた話であるが、ちょっと出来過ぎである。 なお、この場面などを根拠に後深草院が真言立川流の影響を受けていたとする学者も多いが、疑問である。 ☆真言立川流についてはこちら(祐野隆三氏「立川流の影響」)。なお、梅原猛氏も後深草院が真言立川流の影響を受けていたとする(『百人一語』)。 |
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☆「私の立場からの補足」は後日掲載します。