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| 原文(『とはずがたり(下)全訳注』p61以下) 夜中すぐるほどに、召しありて参りたれば、「ありしあらましごとを、ついでつくり出でて、よくこそ言ひ知らせたれ。いかなるたらちを・たらちねの心の闇(やみ)といふとも、これほど志あらじ」とて、まづうち涙ぐみ給へば、何と申しやるべき言葉もなきに、まづ先だつ袖(そで)の涙ぞおさへがたく侍りし。いつよりもこまやかに語らひ給ひて、 「さても人の契りのがれ難きことなど、かねて申ししは聞きしぞかし。そののち、 『さても思ひ掛けぬ立聞きをして侍りし。さだめて憚(はばか)り思(おぼ)し召すらんとは思へども、命をかけて誓ひてしことなれば、かたみに隔てあるべきことならず。なべて世に洩れんことは、うたてあるべき御身なり。忍びがたき御思ひ、前業(ぜんごふ)の感ずる所と思へば、つゆいかにと思ひ奉ることなし。 過ぎぬる春の頃より、ただには侍(はべ)らず見ゆるにつけて、ありし夢の事、ただのことならず覚えて、御契りのほどもゆかしく、見しむば玉の夢をも思ひ合せんために、三月(やよひ)になるまで待ちくらして侍るも、なほざりならず、推しはかり給へ。かつは伊勢・石清水(いはしみづ)・賀茂・春日、国を守る神々の擁護(おうご)に洩れ侍らん。御心のへだてあるべからず。かかればとて、我つゆも変る心なし』 と申したれば、とばかり物も仰せられで、涙のひまなかりしを、はらひ隠しつつ、 『この仰せのうへは、残りあるべきに侍らず。まことに前業の所感こそ口惜しく侍れ。 かくまでの仰(おほ)せ、今生(こんじやう)一世の御恩にあらず。世々(せせ)生々に忘れ奉るべきにあらず。かかる悪縁にあひける恨み忍びがたく、三年過行に思ひ絶えなんと思ふ。念誦・持経の祈念にもこれよりほかのこと侍らで、せめて思ひのあまりに、誓ひを起して、巻書をかの人のもとへ送り遣はしなどせしかども、この心なほやまずして、また廻(めぐ)りあふ小車の、憂しと思はぬ身を恨み侍るに、さやうに著(しる)きふしさへ侍るなれば、若宮を一所わたし参らせて、我は深き山に籠(こも)りゐて、濃き墨染(すみぞめ)の袂になりて侍らん。なほし年ごろの御志も浅からざりつれども、この一ふしのうれしさは、多生(たしやう)の喜びにて侍る』 とて、泣く泣くこそ立たれぬれ。深く思ひ染めぬるさまも、げにあはれに覚えつるぞ」など、御物語あるを聞くにも、「左右(ひだりみぎ)にも」とはかかることをや言はましと、涙はまづこぼれつつ、 |
| 次田香澄氏による現代語訳 |
夜半を過ぎたころに院からのお召しで、伺ったところ、「この間おまえにもいった例のことを、機会を作ってよくよく有明に話し聞かせたよ。どんな生みの父、生みの母が、子ゆえの迷いの心でも、これほどの親心はあるまい」といって、御自身から涙ぐみなさるので、なんと御返事申す言葉もなくて、先立つ袖の涙は、押え難かった。いつもより細やかにお話しになって、 「さて人の前世からの宿縁が逃れ難い話など、かねてみなに申したのは、おまえも聞いていたね。その後、わたしは(有明に)、 『ところで思いがけない立聞きをしてしまいました。さだめし御遠慮にお思いだろうとは思いますが、この事は命を掛けて神に誓ったことですから、あなたとの間にはたがいに隔てがあるはずはありません。すべてが世間に洩れては、たいへんお具合の悪い御身分です。忍び難い御思いは、これも前世の宿業(しゅくごう)の応報と思いますから、いささかもどうかと思い申すことはありません。 去る春のころから彼女も普通の体ではないとみえるにつけて、先日の夢はただごとではないと思われて、お二人の御契りの程をも知りたく、あの夢の行末を見定めるため三月になるまで待ち暮してきましたのも、なまなかの気持ではありません、推察して下さい。また(もし偽りがあったら)伊勢・石清水・賀茂・春日をはじめ、国を守る神々のお加護に洩れるでしょう。お心に隔てがあってはいけません。こうだからといって、私の気持にすこしも変りはありません』 と申した。すると有明は、しばらく物もおっしゃらないで、とめどなく流していられた涙を払い隠しつつ、 『こういう仰せをいただいたうえは、なにも申しあげることはございません。まことに前世の宿業の報いは口惜しゅうございます。これほどまでの仰せは、今生(こんじょう)一世だけの御恩ではございません。世々(せせ)生々お忘れ申すことはできません。こういう悪縁にあった恨みは堪え難く、三年過ぎ行く間に愛欲の念を断とうと思いましたが、念仏読経の祈念にも、この思いよりほかのことはなく、せめて思い余って誓いを起こし、手紙をかの人のところへ送り届けなどしましたけれども、この心はなおやまず、小車が回って元へもどるように、また二人の仲が元にもどってしまったことを、情ないとは思わぬわが身を恨んでおりましたのに、さようにはっぎりした兆さえございますそうですから、寺のあとつぎには院の若宮をお一人、私どもの方へおいでいただきまして、私は深い山にこもり、濃い墨染の衣を着て過すことにいたしましょう。長年の御厚意もやはり浅くございませんでしたが、この一事のうれしさは、後々の世までの喜びでございます』 といって、泣く泣く立たれた。おまえを深く思い込んだ様子も、まことに哀れ深く思ったよ」などお話しになるのを聞くにつけても、「左右にも」とはこういうことをいうのであろうと、涙がついこぼれ出るのだった。 |
| ☆次田香澄氏は「解説」で「院が有明に語ったこと、有明の反応を作者に告げて涙ぐんだところには、院の性格の一面が出ている。巻一で、父雅忠に万一のことがあったら自分よりほかに頼るものはないのだ、といって涙ぐんだという段と同様、院の女性的な、自己陶酔的な性質の一端を表わす。」と言われている。 次田香澄氏は後深草院と「有明の月」の発言が事実であって、それを後深草院二条がそのまま記録したものと考えられているのであるが、しかし両者の発言は分量的に相当多いものであって、単に分量だけを考えても、私にはこれが事実の記録とは思えない。 また、「有明の月」の発言は、仮に「有明の月」が性助法親王(1247〜1282.36歳)だとすると、後深草院二条にとってみれば、自分より11歳も年上で仁和寺御室という極めて高貴な身分の人がここまで私に夢中になってくれるのだ、という自慢話とも受け取れる訳で、そうだとすれば、ここは後深草院ではなく後深草院二条の「自己陶酔的な性質の一端を表わす」場面と解釈することも可能になるはずである。 ☆「有明の月」が奇怪な起請文を送りつけてきた場面はこちら。 |
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☆「私の立場からの補足」は後日掲載します。