更新11.12/1 up11.11/29
| 原文(『とはずがたり(下)全訳注』p254) 八月(はづき)の初めつ方にもなりぬれば、武蔵野の秋の景色ゆかしさにこそ、今までこれらにも侍りつれと思ひて、武蔵の国へ帰りて、浅草と申す堂あり。十一面観音のおはします、霊仏と申すもゆかしくて参るに、野の中をはるばると分けゆくに、萩・女郎花(をみなへし)・荻(をぎ)・芒(すすき)よりほかは、またまじるものもなく、これが高さは、馬に乗りたる男の見えぬほどなれば、おしはかるべし。三日にや分けゆけども、尽きもせず。ちとそばへ行く道にこそ宿(しゆく)などもあれ、はるばる一とほりは、来(こ)し方(かた)行く末野原なり。 観音堂はちとひき上りて、それも木などはなき原の中におはしますに、まめやかに、 草の原より出づる月影と思ひ出づれば、今宵は十五夜なりけり。雲の上の御遊びも思ひやらるるに、御形見の御衣(おんぞ)は、如法経の折、御布施に大菩薩に参らせて、今ここにありとはおぼえねども、鳳闕(ほうけつ)の雲の上忘れ奉らざれば、余香(よきやう)をば拝する志も、深きにかはらずぞおぼえし。 草の原より出でし月影、更けゆくままに澄みのぼり、葉末に結ぶ白露は、玉かとみゆる心地して、
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| 次田香澄氏による現代語訳 |
私の立場からの補足 |
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| 八月の初め頃ともなったので、武蔵野の秋の風情の見たさにこそ今までここら辺りにもいたのだと思って、武蔵の国へ帰った。そこには浅草と申す堂がある。十一面観音がいらっしゃる。霊験あるみ仏と聞くのもゆかしくて参ると、野の中をはるばると分けてゆくのに、萩・女郎花(おみなえし)・荻(おぎ)・芒(すすき)よりほかにはまた混じるものもなく、これらの高さは馬に乗った男が見えないほどなので推しはかれよう。三日ぐらいか分けていっても尽きもしない。すこし協へ入った道にこそ宿場などもあるが、はるばると続く道は来し方も行く末も野原である。
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| 浅草の観音堂はちょっと高くなって、それも木などはない原の中にいらっしゃるが、(折からの月の出に)ほんとうに「草の原より出づる月影」と思い出せば、今宵は十五夜であった。宮廷で催される管絃の御遊も思いやられるが、院から賜わった形見の御衣(おんぞ)は、如法経の折に御布施として、八幡大菩薩に奉納したので、「今ここにあり」とは思われないけれど、宮廷のことを忘れ奉ることがないので、余香を拝する志も古人の心深さにかわらないと思った。 |
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草の原から出た月影は、更けゆくままに澄みのぼり、葉末に結ぶ白露は、玉かとみえる心地がして、
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